手首
重要な会議があるというのに寝坊してしまったぼくは、普段より一本遅い列車に駆け込みました。
いつもは黒い塊がひしめく車内で、それに飲み込まれてしまわないよう二本の足で踏ん張っていたぼくですが、今朝は数年ぶりに座ることができました。隣でお喋りしている女子高生の甲高い声から逃れるために、ぼくは音楽プレイヤーと両耳をイヤホンで繋ぎます。音楽は流しません。これは少し値の張る耳栓なのでした。
誰かに声をかけられた気がして、ぼくは顔を上げました。名を呼ばれたのではなく、それは「おい。」とか、「ちょっと、君。」とか、そういったものでした。すると、吊り革にぶら下がっている何かに目がいきました。
それは人間の手首でした。
初め、ぼくはそれをマネキンか何かと錯覚しました。しかしその指に生えている毛が、人間の手首そのものであることを物語っていました。
ぼくは決して目がいいほうではありません。瓶底眼鏡をかけ忘れると、手元の資料に整列していたはずの文字が、真っ黒の塊になってぼくを襲ってきます。憂鬱を形にしたようなそれから目を守るために、ぼくは眼鏡をかけ、そうして耳を犠牲にするほかありませんでした。眼鏡のほうはぼくの耳を切り落とそうと、虎視眈々と機会をうかがっていたのですから。そこで、ぼくの目と耳とが協議した結果、仕事や読者のときにだけ眼鏡がかけられることに決まったのです。
つまり今、電車に揺られているだけのぼくは、眼鏡をかけていません。文字よりも細い指毛など――文字は所詮人間の発明品なので、神の創りたもうた人間の部位より繊細であるはずがないのです――本来なら見えるはずもありません。それなのに、正真正銘、人間の手首であるとわかったのは、指毛のほうがぼくの目に飛び込んできたからなのです。
ぼくの眦から、つうと涙が流れました。
どうして気がつかなかったのだろう。
すべては、手首だけでいいのだ!
キーボードを打つのも、指先だけで事足ります。
意見を持っていることを示すためにも、手首は必要です。口がないと発言もできないじゃないか、とあなたは口を尖らせるかも知れませんが――口がなければ尖らせることもできませんね――その必要はないのです。内容などはどうでもいいのです。意見を求めてくる人間は、その実、すでに結論を出しています。だから手を上げるだけでいいのです。おそらく相手は、手のひらの皺や指紋をいいように読み取って、都合よく解釈してくれるはずです。
嗚呼、しかし目玉は必要になってくるでしょう。だとしたら彼――指毛が濃いので「彼」とさせてもらいます――の目玉は手のひらの中に?
目を凝らしてみると、彼の人差し指と中指だけが吊革に引っ掛かっていました。残りの三本の指で目玉を包んでいるのでしょう。彼の手首は、目玉を潰さないよう包み込みながら、なおかつ吊革を握りしめているのです。
力強く、優しい手首。
手首になろう。
又も声が聞こえてきました。そういえば手首も喋れるのだな、とぼくは感心しました。口のほうがうるさく、気にくわない人間を黙らせるのには便利なので、手首は喋らなかっただけなのだとすぐに気がつきました。
「手首になろう。」
今度の声は、ぼく自身のものです。
手首になるためには、それを切り落とさなければなりません。ぼくは刃物の類を持っていませんでしたが、あてはあります。吊革です。目の前で揺れている吊革が三角ではなく丸なのは、それがギロチンの役目も負っているからなのです。
ぼくは立ち上がって、吊革に手首を通しました。窓の外の風景が流れていきます。その抽象画を一枚、二枚と数えているうちに、とうとう電車はぼくの降りる駅に停まりました。それでもぼくは手首になれませんでした。手首になれないのなら、このまま降りて出勤するほかありません。
がたん。
ぼくはぎょっとして手首を見ました。見えたり聞こえたりしているのですから、目も耳も、ぼくも、まだ存在していました。それはギロチンの下りる音ではなく、列車の扉が閉まる音でした。
ほうっと息を吐き出したぼくは、しかし愕然としました。手首になれなかったことをぼくは安堵したのです。
ぼくは次の駅で降りることにしました。ギロチンをぶらさげながら動く棺桶から、早急に逃げ出さなければならない気がしてきました。
手首になりきれなかったぼくには、まだ足があるのですから。
2012年
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