8
闘技場がカルカンドに襲撃されてから三日が経った。
被害を受けたのは闘技場だけであり、これを不幸中の幸いとする声もあったが、問題が複雑化している原因でもあった。
ルーエはグラツィオーソ王国随一の城郭都市である。城壁の中にも緑はあるものの、魔獣が潜むような森はない。そして、城壁から闘技場まで距離があるにもかかわらず、闘技場の外での目撃情報はなかった。
つまり、カルカンドはルーエの外から侵入してきたのではなく、闘技場に突如として現れたことになる。
「これからどうすっか……」
シェントはため息交じりに独りごち、ワインに手を伸ばした。居座るために注文したのであって、朝から飲むほどの酒好きというわけではない。
場所は事件当日と同じく〈ヴァンとソー〉。武闘大会期間中は営業時間を拡大している店が多く、この酒場も朝早くから開店していた。
飲酒が認められている年齢は国や地域によってさまざまで、この国では十六歳から成人として扱われ、酒も飲めるようになる。今度の冬で十八になるシェントが注文したワインは、店で一番の安物だった。
安酒にも慣れてきたが、ワインが高騰するのも時間の問題だろう。二、三年前から各地の葡萄園が次々と魔獣に食い荒らされ、葡萄の収穫量が激減しているらしい。
「魔族、か……」
シェントは半ば自棄になって酒を飲み干すと、頭を打ちつけるようにテーブルに突っ伏した。この三日間、いろいろと考えることがあってあまり寝つけなかったのだ。
いっそ酒の力を借りて一眠りしてしまおうか。怠惰な考えが脳裏を掠めた矢先、頭上から声が降ってきた。
「具合でも悪いのか?」
弾かれたように身を起こすと、目の前に緋色の髪の少女が立っていた。
「あ! アー……アレグロ、だっけ」
「もう忘れたのか」
「いや、忘れたわけじゃないけどさ」
シェントは苦笑した。
――忘れるわけがない。
昨日だって、彼女に会うためにここを訪れていたのだ。しかしながら会うことは叶わず、今日も姿が見えなくて密かに落胆していた。
もちろんそのことには触れず、シェントは適当に話を振る。
「どう、大会は。順調?」
「大会にはもう出ない。再戦も断ってきた」
首を横に振ったアレグロは、シェントの隣に腰かけた。
「再戦? ああ、バッソとの」
「本部から再戦の知らせがあったのだが、バッソが辞退すると言って。私も大会の参加を取りやめてきた」
待てよ、とシェントが怪訝な顔をする。
「あの試合は、どう考えてもアレグロの勝ちじゃなかったか?」
「……なぜそう思う」
「なんで、って……わざとだろ? いろいろと。転んだのも演技で、缶なんて踏んじゃいないだろうし。端に移動したのも、もしかして最初からそのつもりで?」
アレグロはあっさりとうなずいた。
「あの手が通用するのも初戦だけだ。模擬剣一つで戦えるなど、端から思っていない」
「は、はあ」
思わず生返事をするシェント。
たしかに、まともに剣の試合をしたところで、アレグロは勝てなかっただろう。だから状況を活かした戦いをしたのだ。実際、旅路で遭遇する悪漢や魔獣との戦闘では、規則など存在しないのだから。
「それに、勝つ必要はなかったから」
「え……? じゃあ、なんで参加したんだ?」
「……人を探していた」
アレグロはシェントから顔を背けた。
チェルティーノ大陸一の大国とも謳われるグラツィオーソ王国で、五年に一度開かれる武闘大会。その参加者は大陸各地から集まってくる。
――いったい誰を探していたのか。
聞いたところで慰めの言葉の一つもかけられない気がして、シェントは話題を変えるため財布を取り出した。
「そういえば、この間のお金……アレグロが俺の分まで払ったよな? 俺が奢るつもりだったのに」
テーブルの上で硬貨を数えるシェントの左手を、アレグロが両手で制止した。
「え、あっ、アレグロ?」
「いらない。……二度も助けてもらったから」
要するに、謝礼の代わりに支払ったということか。
二度のうち一度は闘技場での事件を指しているのだろう。だが、森でカルカンドに襲われたときには、アレグロが単独で返り討ちにした。シェントの出る幕などなかったのだ。
しかし思い返せば、その翌日にも彼女は「一人だったら死んでいただろう」と話していた。
なぜそこまで恩義を感じているのか。不思議に思いつつ、シェントはアレグロの手を掴み返す。
「俺、一度出した金は財布に戻さない主義なんだ」
適当なことを言ってアレグロに硬貨を握らせるが、何枚か床に落ちてしまった。慌ててシェントは身を屈め、それを拾い集める。頭をテーブルに強打し、ゴッ、と鈍い音が響いた。
「痛っ――!」
「……ふっ」
シェントが後頭部を擦りながら椅子に座り直すと、アレグロの頬が緩んでいた。初めて目にするアレグロの笑みだった。
知らず見つめていたシェントは、彼女と目が合うと気まずそうに視線を逸らした。
「ま、まあ、闘技場の魔獣だって、刀があればアレグロが倒してただろうけど」
「魔獣……? 魔物ではないかと言われているが?」
「知ってる。魔族の仕業かもしれない、って話だろ?」
今回の騒動について、グラツィオーソ王国の正式な見解は未だ発表されていない。しかし、魔族の差し金であると主張する声も一部から上がっていた。
千年前の〈魔界大戦〉で敗れ去った魔族に関して、ここ二、三年ほど、とある噂が囁かれるようになった。きっかけは魔獣の出現範囲が急拡大したことだった。
魔獣とは、〈魔界大戦〉で魔族が使用した生物兵器であり、さらにいえば大きく二種類に分類されていた。
生きている魔獣と、魔術で作られた魔獣。
作りものとされる後者には、自然の生きものにはない特質があった。神出鬼没で、死ぬと肉体も残さずに霧散するのである。「それ」は魔族が作った物との意を込めて、「魔物」と称された。
大戦から千年が経った現在、各地で猛威を振るっている魔獣の一部は、伝え聞いていた魔物と同じ特徴を持っていた。
魔物が出現したということは、背後に魔族が存在しているのではないか。人類のあずかり知らぬところで、再び侵略行為に及んでいるのではないか。
噂が世界中に広まるまで時間はさほどかからなかった。
「あれは死体が残ってたから、魔物じゃなくて魔獣だと思うんだよな。でも、闘技場でしか目撃されていないってのがなあ」
シェントは先日のカルカンドの正体について考えあぐねていた。
魔物だとすれば死体が残ったことが、魔獣だとすれば街中で姿を見せなかったことが、定義と矛盾してしまう。
「あの闘技場はもともと――」
しばし押し黙っていたアレグロが、思い出したかのように口を開いた。
「剣奴と魔獣を戦わせるために作られたらしい。市民の娯楽のために、見世物として。今では禁止されているそうだが」
「闘技場に魔獣を入れるってことか? それって、もしかしたら……」
「魔獣を押し込めておく檻とかが、あるのかもしれない」
アレグロが囁くように話を続ける。
「試合前日の夜中、闘技場の裏口に荷馬車が停まっていたそうだ」
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