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 闘技場がカルカンドに襲撃されてから三日が経った。

 

 被害を受けたのは闘技場だけであり、これを不幸中の幸いとする声もあったが、問題が複雑化している原因でもあった。

 ルーエはグラツィオーソ王国随一の城郭都市である。城壁の中にも緑はあるものの、魔獣(カルカンド)が潜むような森はない。そして、城壁から闘技場まで距離があるにもかかわらず、闘技場の外での目撃情報はなかった。

 つまり、カルカンドはルーエの外から侵入してきたのではなく、闘技場に突如として現れたことになる。

 

「これからどうすっか……」

 

 シェントはため息交じりに独りごち、ワインに手を伸ばした。居座るために注文したのであって、朝から飲むほどの酒好きというわけではない。

 場所は事件当日と同じく〈ヴァンとソー〉。武闘大会期間中は営業時間を拡大している店が多く、この酒場も朝早くから開店していた。

 飲酒が認められている年齢は国や地域によってさまざまで、この国では十六歳から成人として扱われ、酒も飲めるようになる。今度の冬で十八になるシェントが注文したワインは、店で一番の安物だった。

 安酒にも慣れてきたが、ワインが高騰するのも時間の問題だろう。二、三年前から各地の葡萄園が次々と魔獣に食い荒らされ、葡萄の収穫量が激減しているらしい。

 

「魔族、か……」

 

 シェントは半ば自棄(やけ)になって酒を飲み干すと、頭を打ちつけるようにテーブルに突っ伏した。この三日間、いろいろと考えることがあってあまり寝つけなかったのだ。

 いっそ酒の力を借りて一眠りしてしまおうか。怠惰な考えが脳裏を(かす)めた矢先、頭上から声が降ってきた。

 

「具合でも悪いのか?」

 

 弾かれたように身を起こすと、目の前に緋色の髪の少女が立っていた。

 

「あ! アー……アレグロ、だっけ」

「もう忘れたのか」

「いや、忘れたわけじゃないけどさ」

 

 シェントは苦笑した。

 ――忘れるわけがない。

 昨日だって、彼女に会うためにここを訪れていたのだ。しかしながら会うことは叶わず、今日も姿が見えなくて密かに落胆していた。

 もちろんそのことには触れず、シェントは適当に話を振る。

 

「どう、大会は。順調?」

大会(あれ)にはもう出ない。再戦も断ってきた」

 

 首を横に振ったアレグロは、シェントの隣に腰かけた。

 

「再戦? ああ、バッソとの」

「本部から再戦の知らせがあったのだが、バッソが辞退すると言って。私も大会の参加を取りやめてきた」

 

 待てよ、とシェントが怪訝(けげん)な顔をする。

 

「あの試合は、どう考えてもアレグロの勝ちじゃなかったか?」

「……なぜそう思う」

「なんで、って……わざとだろ? いろいろと。転んだのも演技で、缶なんて踏んじゃいないだろうし。端に移動したのも、もしかして最初からそのつもりで?」

 

 アレグロはあっさりとうなずいた。

 

「あの手が通用するのも初戦だけだ。模擬剣一つで戦えるなど、端から思っていない」

「は、はあ」

 

 思わず生返事をするシェント。

 たしかに、まともに剣の試合(・・)をしたところで、アレグロは勝てなかっただろう。だから状況を活かした戦いをしたのだ。実際、旅路で遭遇する悪漢や魔獣との戦闘では、規則(ルール)など存在しないのだから。

 

「それに、勝つ必要はなかったから」

「え……? じゃあ、なんで参加したんだ?」

「……人を探していた」

 

 アレグロはシェントから顔を(そむ)けた。

 チェルティーノ大陸一の大国とも(うた)われるグラツィオーソ王国で、五年に一度開かれる武闘大会。その参加者は大陸各地から集まってくる。

 ――いったい誰を探していたのか。

 聞いたところで慰めの言葉の一つもかけられない気がして、シェントは話題を変えるため財布を取り出した。

 

「そういえば、この間のお金……アレグロが俺の分まで払ったよな? 俺が(おご)るつもりだったのに」

 

 テーブルの上で硬貨を数えるシェントの左手を、アレグロが両手で制止した。

 

「え、あっ、アレグロ?」

「いらない。……二度も助けてもらったから」

 

 要するに、謝礼の代わりに支払ったということか。

 二度のうち一度は闘技場での事件を指しているのだろう。だが、森でカルカンドに襲われたときには、アレグロが単独で返り討ちにした。シェントの出る幕などなかったのだ。

 しかし思い返せば、その翌日にも彼女は「一人だったら死んでいただろう」と話していた。

 なぜそこまで恩義を感じているのか。不思議に思いつつ、シェントはアレグロの手を(つか)み返す。

 

「俺、一度出した金は財布に戻さない主義なんだ」

 

 適当なことを言ってアレグロに硬貨を握らせるが、何枚か床に落ちてしまった。慌ててシェントは身を(かが)め、それを拾い集める。頭をテーブルに強打し、ゴッ、と鈍い音が響いた。

 

()っ――!」

「……ふっ」

 

 シェントが後頭部を(さす)りながら椅子に座り直すと、アレグロの頬が緩んでいた。初めて目にするアレグロの笑みだった。

 知らず見つめていたシェントは、彼女と目が合うと気まずそうに視線を()らした。

 

「ま、まあ、闘技場の魔獣だって、刀があればアレグロが倒してただろうけど」

「魔獣……? 魔物ではないかと言われているが?」

「知ってる。魔族の仕業(しわざ)かもしれない、って話だろ?」

 

 今回の騒動について、グラツィオーソ王国の正式な見解は(いま)だ発表されていない。しかし、魔族の差し金であると主張する声も一部から上がっていた。

 千年前の〈魔界大戦〉で敗れ去った魔族に関して、ここ二、三年ほど、とある噂が(ささや)かれるようになった。きっかけは魔獣の出現範囲が急拡大したことだった。

 魔獣とは、〈魔界大戦〉で魔族が使用した生物兵器であり、さらにいえば大きく二種類に分類されていた。

 生きている魔獣と、魔術で作られた(・・・・)魔獣。

 作りものとされる後者には、自然の生きものにはない特質があった。神出鬼没で、死ぬと肉体も残さずに霧散するのである。「それ」は()族が作った()との意を込めて、「魔物」と称された。

 大戦から千年が経った現在(いま)、各地で猛威を振るっている魔獣の一部は、伝え聞いていた魔物と同じ特徴を持っていた。

 魔物が出現したということは、背後に魔族が存在しているのではないか。人類のあずかり知らぬところで、再び侵略行為に及んでいるのではないか。

 噂が世界中に広まるまで時間はさほどかからなかった。

 

「あれは死体が残ってたから、魔物じゃなくて魔獣だと思うんだよな。でも、闘技場でしか目撃されていないってのがなあ」

 

 シェントは先日のカルカンドの正体について考えあぐねていた。

 魔物だとすれば死体が残ったことが、魔獣だとすれば街中で姿を見せなかったことが、定義と矛盾してしまう。

 

「あの闘技場はもともと――」

 

 しばし押し黙っていたアレグロが、思い出したかのように口を開いた。

 

「剣奴と魔獣を戦わせるために作られたらしい。市民の娯楽のために、見世物として。今では禁止されているそうだが」

「闘技場に魔獣を入れるってことか? それって、もしかしたら……」

「魔獣を押し込めておく檻とかが、あるのかもしれない」

 

 アレグロが(ささや)くように話を続ける。

 

「試合前日の夜中、闘技場の裏口に荷馬車が停まっていたそうだ」