5
黄昏の空に生まれし歪み
其処より魔族、地に降り立ちぬ
およそ千年前に異界から侵略してきたという未知の生命体。彼らについての史料は極端に少なく、ある種の昔話として語り継がれてきた。
曰く、彼らの姿形は人類に酷似していた。
曰く、彼らは道具を使うことなく炎や雷を操った。
まるで「種も仕掛けもない手品」のようなそれは、当時の人類が空想していた「魔術」というものに近かったらしい。人類は彼らを「魔族」と呼び、彼らの元いた世界――おそらくは天空の向こう側――を「魔界」と称した。
魔族の襲来によって大陸のいたるところで火の手が上がり、雷鳴が轟き、人類は混乱に陥った。
当然、黙って魔族に殺される人類ではなかった。魔族との攻防は百年にも渡り、のちに〈魔界大戦〉と名づけられる。
魔獣とは、その大戦で使われた魔族の生物兵器であった。
魔族が敗戦を喫して全滅したのち、魔獣は人目のつかない森などに姿を眩ませた。とうに終戦した現在でも人を襲う凶暴な生物ではあるが、森から出てくることは滅多にない。
しかし今まさに闘技場に飛び込んできたのは、見紛うことなき魔獣であった。
暗雲のように黒く湿っぽい毛並。耳まで裂けた口から覗く鋭い牙。不格好なほど大きな前足に生える鉤状の爪。
体長や四つ足で歩行する点こそ猟犬と変わらないが、この魔獣は猟犬すら簡単に狩ってしまう。
「カ、カルカンド……?」
「どうして魔獣が!?」
「逃げっ、逃げろおおおっ!!」
数少ない出口へ我先にと駆け上っていく観客。
その流れに逆らうことは容易ではなかった。シェントは逃げ惑う人々をかき分けながら、観戦席の最前列へと急ぐ。
「ちょっ、通らせ――痛ぇっ!? 誰だよ踵の高い靴で来たのは……」
何度も人の波に飲まれそうになったが、なんとかフィールドを覗き込める位置まで辿り着くと――顔をしかめ弱々しく呟いた。
「あー……やっぱり高いな」
高所恐怖症というわけではない。
誰だって高い場所から飛び降りるには勇気がいる。
(問題は降りてからなんだけど。〈鎌鼬〉を発動させる時間はないし……これなら使えるか?)
シェントは近くに転がっていた空き瓶を紙袋に入れ、地を強く叩いた。ガラスが割れて擦れ合う音がした。
その袋を左脇に抱え、左手で斧槍をきつく握りしめる。息を細く吐き出すと、右手中指の指輪を口に寄せた。
そして。
「ルフ・ティヒウェル……テクス・ツァール・トハイト……」
指輪にはめ込まれた翡翠の石に囁きかけるように、シェントは呪文を呟き始めた。
「なんだってこんなとこにカルカンドが!?」
バッソは混乱していたが、考えるより先に身体が動いた。東の方角へ疾走すると、襲いかかってきたカルカンドの腹を、
「この野郎っ!」
剣で横薙ぎにぶっ叩いた。技も型もあったものではない。
腹に打撃を喰らったカルカンドは、「ぎっ!」と一声鳴いて地に落ちた。
しかし、所詮は試合のために用意された刃のない模擬剣。当然ながら殺傷力は低い。カルカンドは涎をまき散らしながら転げ回っているが、やはり致命傷は与えられなかったようだ。
「……ったく、魔獣との戦闘なんて聞いてねえぞ?」
続けざまに攻撃してきた二頭目も模擬剣で殴りつけ、バッソは苦虫を噛み潰したような顔をした。
東西の出入口には衛兵が数人配置されていたはずだが、ここから見える東口に彼らの姿はない。観戦席に上がって避難誘導をしているのだろう。
対人訓練を受けただけの一般兵では、魔獣を相手することは困難である。その点、バッソは魔獣討伐部隊に属しており、魔獣の特徴も頭に入っていた。
カルカンドの場合はその俊敏な動きが脅威となる。一人で二頭を相手するなど本来ならば無謀であり、二人で一頭を討つことのほうが多い。一人が囮となり、もう一人がカルカンドの不意を突く戦法が定石なのだが――
(こいつら、ちと動きが鈍くねえか?)
バッソもそこまで自惚れていない。部隊の副隊長に選ばれたのも、見た目によらず謙虚な性格を買われてのことだ。対魔獣が専門といえど、二頭を続けて倒せるはずがない。
言いようのない不安を振り払うため、バッソはわざと大きな声で愚痴をこぼした。
「一人でこの数相手するのはきついんだがなあ。早う応援連れて来いよ?」
自らのぼやきを反芻し、バッソははたと立ち止まる。
一人? いや、違う。フィールドにはもう一人いた。
「嬢ちゃんはいないだろうな?」
心配になって辺りを見回すバッソ。
衛兵に誘導されてとっくに逃げているはずだ、と思っていたのだが――
「嬢ちゃん!?」
足がすくんで逃げられなかったのか、アレグロはフィールドの端で突っ立っていた。
彼女の目の前では、一匹のカルカンドがその身を低くしている。いつ飛びかかってもおかしくない体勢だ。
バッソが青ざめたと同時、彼の背後から別のカルカンドが迫る。
「くっ――邪魔だあ!!」
バッソは振り向きざまに剣でカルカンドを弾き飛ばした。
――間に合わない。
悲鳴すら聞こえなかったのは、叫ぶ間もなくやられたということか。
覚悟を決めたバッソは、それでも恐る恐るといったふうにアレグロのほうを向き直った。その目に、にわかには信じがたい光景が飛び込んできた。
ぎいぃぃぃ――っ!!
地に転がっていたのは、苦鳴を漏らしながらのたうち回るカルカンドだった。
「な、何が起こったんだ……」
呆気にとられながら、バッソはアレグロへ視線を移す。
直後、アレグロがカルカンドに向けて黒塗りの棒を投擲した。カルカンドに吸い寄せられるように飛んでいくそれは、少女の手よりやや長く、片方の先端が尖っていた。棒手裏剣である。
ぎゃっ!?
カルカンドの脳天に棒手裏剣が突き刺さる。
断末魔は一瞬。カルカンドは一度大きく震えたきり、二度と動かなくなった。
「いったいどこからあんなものを――ああ、なるほどな」
バッソは呻くように呟いた。目を凝らしてみると、彼女は着込んでいたコートのボタンを外しており、腿には棒手裏剣が装備されていた。
試合では模擬剣以外の武器の使用は禁止されているが、試合中に使わなければ――要するにバレなければ、持ち込んでいても咎められることはない。
自然とバッソの口から感嘆のため息が漏れた。それでも、今の彼女の手持ちは限られているはずだ。
「嬢ちゃん! ここは早く逃げ――へ!?」
バッソは頓狂な声を上げた。見間違いでなければ、アレグロが背にしている観戦席から人が落ちてきたのだ。
地に倒れていたカルカンドの一頭が、好機とばかりに素早く身を起こした。
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