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 闇があった。

 手を伸ばしてみても、闇しかなかった。

 辺り一面真っ暗だというのに、自分の手ははっきりと見える。

 背中を悪寒が駆け上がる。慌てて手を引っ込める。

 〈闇〉は怖くない。

 怖いのは、手を離してしまったから。

 ――誰の手を?

 

「――っ!」

 

 名前を叫ぼうにも、肝心の名前が思い出せない。

 焦る俺の目の前に、緋色の炎が灯る。

 近いような。遠いような。

 暗闇の中では距離もわからない。

 

「待っ――……」

 

 揺れる緋色に近づこうと、再び手を伸ばす。

 がくん、と身体が引っ張られる。

 急に重くなった足を見ると、装飾品のように華奢な鎖が、何重にも絡みついていた。

 

「なっ、なんだよ、これ!?」

 

 力任せに引っ張ってみても、千切れそうな予感はない。

 それどころか、鎖は腕を()い上がってきた。

 

()――ッ!!」

 

 両腕を左右に引っ張られて、いよいよ身動きできなくなった。

 ――そもそも、この鎖はどこから伸びてきているんだ。闇の中からか?

 

「……ふざ、けんな……」

 

 いったい何の真似だというのか。

 彼女の〈闇〉は――その魔術は、俺を救ってくれたというのに。

 緋色の炎が消えかかる。

 闇に飲まれていく、彼女の後ろ姿に向けて叫ぶ。

 

「アーチェ!」

 

 

   ♪ ♪ ♪

 

 

 夢から覚めたシェントの顔を、緋色の髪の少女が覗き込んでいた。

 

「アー……アレグロ、だよな」

「寝ぼけているのか?」と、彼女は呆れたように鼻で笑う。

 

 森の中で一晩野宿することに決めた一行は、アルトを除く三人で夜の番をすることにした。

 アレグロと交代したシェントは、心身共に疲労していたのか、すぐに眠りに落ちてしまったのだ。

 

「俺、何か変なこと言ってなかった?」

「寝言? べつに。ただ、うなされていたようだったから」

「起こしてくれたのか、ありがとう」

 

 アレグロはうなずき、それまで座っていた丸太に再び腰かけた。

 光石の使用期限が近いのか、橙色の明かりが微かに揺れている。

 しばしそれを見つめていたシェントは、ふいに立ち上がってアレグロの前に(ひざ)をついた。

 すがるように。

 あるいは、祈るように。

 彼女の両手をきつく握りしめる。

 

「――カデンツァに行くの、不安だろうけどさ」

 

 シェントの脳裏を(かす)めるのは、あの真っ白な女の子と、その手に握られていたコデッタの死骸。

 たしかに異様な雰囲気を(かも)していたが、相手はまだ子どもだった。魔族という確信も得られないまま斬りかかったアレグロは、記憶を思い出しかけて錯乱したのではないか。

 カデンツァ王国へ行って、また魔族に出くわすようなことがあれば。アレグロは、自分が魔族であることを思い出してしまうかもしれない。

 彼女が記憶喪失であると信じて疑わないシェントは、そう考えていた。

 

 記憶が戻ることが、彼女にとっていいことなのか。

 シェントにはわからない。自分が決めるべきではない。

 

 ――だから、彼女がすべてを思い出すまでは。形見を渡すのは、少し待っていてくれないか。

 自分にネックレスを(たく)してきた、アーチェのかつての仲間に、シェントは心の内で願った。

 

「俺が、アレグロを守るから」