36
闇があった。
手を伸ばしてみても、闇しかなかった。
辺り一面真っ暗だというのに、自分の手ははっきりと見える。
背中を悪寒が駆け上がる。慌てて手を引っ込める。
〈闇〉は怖くない。
怖いのは、手を離してしまったから。
――誰の手を?
「――っ!」
名前を叫ぼうにも、肝心の名前が思い出せない。
焦る俺の目の前に、緋色の炎が灯る。
近いような。遠いような。
暗闇の中では距離もわからない。
「待っ――……」
揺れる緋色に近づこうと、再び手を伸ばす。
がくん、と身体が引っ張られる。
急に重くなった足を見ると、装飾品のように華奢な鎖が、何重にも絡みついていた。
「なっ、なんだよ、これ!?」
力任せに引っ張ってみても、千切れそうな予感はない。
それどころか、鎖は腕を這い上がってきた。
「痛――ッ!!」
両腕を左右に引っ張られて、いよいよ身動きできなくなった。
――そもそも、この鎖はどこから伸びてきているんだ。闇の中からか?
「……ふざ、けんな……」
いったい何の真似だというのか。
彼女の〈闇〉は――その魔術は、俺を救ってくれたというのに。
緋色の炎が消えかかる。
闇に飲まれていく、彼女の後ろ姿に向けて叫ぶ。
「アーチェ!」
♪ ♪ ♪
夢から覚めたシェントの顔を、緋色の髪の少女が覗き込んでいた。
「アー……アレグロ、だよな」
「寝ぼけているのか?」と、彼女は呆れたように鼻で笑う。
森の中で一晩野宿することに決めた一行は、アルトを除く三人で夜の番をすることにした。
アレグロと交代したシェントは、心身共に疲労していたのか、すぐに眠りに落ちてしまったのだ。
「俺、何か変なこと言ってなかった?」
「寝言? べつに。ただ、うなされていたようだったから」
「起こしてくれたのか、ありがとう」
アレグロはうなずき、それまで座っていた丸太に再び腰かけた。
光石の使用期限が近いのか、橙色の明かりが微かに揺れている。
しばしそれを見つめていたシェントは、ふいに立ち上がってアレグロの前に膝をついた。
すがるように。
あるいは、祈るように。
彼女の両手をきつく握りしめる。
「――カデンツァに行くの、不安だろうけどさ」
シェントの脳裏を掠めるのは、あの真っ白な女の子と、その手に握られていたコデッタの死骸。
たしかに異様な雰囲気を醸していたが、相手はまだ子どもだった。魔族という確信も得られないまま斬りかかったアレグロは、記憶を思い出しかけて錯乱したのではないか。
カデンツァ王国へ行って、また魔族に出くわすようなことがあれば。アレグロは、自分が魔族であることを思い出してしまうかもしれない。
彼女が記憶喪失であると信じて疑わないシェントは、そう考えていた。
記憶が戻ることが、彼女にとっていいことなのか。
シェントにはわからない。自分が決めるべきではない。
――だから、彼女がすべてを思い出すまでは。形見を渡すのは、少し待っていてくれないか。
自分にネックレスを託してきた、アーチェのかつての仲間に、シェントは心の内で願った。
「俺が、アレグロを守るから」
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