31
人気のなくなった裏通りの側溝を、コデッタが群れを成しながら進んでいく。蠢動しながら移動する灰色のそれは、遠目に見れば濁流のようだ。
その流れを断ち切るかのように、側溝に剣が突き立てられた。
きゅ、き……っ!
危機を察したのか、コデッタが身を固くする。
バッソは突き立てた剣を鞘に戻すと、コデッタに背を向けて走り出した。
きっ? きぃぃぃ――!!
怒りに震えるかのごとく波打ち、側溝を飛び出すコデッタ。
追いかけてくるコデッタと付かず離れずの距離を保ったまま、バッソは〈降臨の塔〉を目指す。上着の内ポケットから取り出した懐中時計を睨み、時間を調整するため適当な道を駆け抜ける。
〈降臨の塔〉の方角から、十一時を告げる鐘の音が聞こえてきた。
バッソは走る速度を上げた。
やがて、丘のような外観の神殿が視界に飛び込んできた。
背後に迫るのはコデッタのものではない足音。ラティーを走り回ってきた守護者たちが、コデッタを引き連れて集まってきたのだ。
彼らの目指す先――神殿の丘の前で、カノンが仲間に借りた弓を構えている。
守護者は左右二手に分かれて彼女の横を通り過ぎ、丘の麓に身を伏せた。
ほどなくしてやってきたコデッタの行く手を阻むように、地面に一本の矢が突き刺さった。
矢を放ったカノンはすぐさま〈降臨の塔〉へ向かった。
ぎゅ、ききっ!
先頭のコデッタの目にはカノンしか映っていなかった。狙いを彼女一人に定め、後ろのコデッタもそれに続く。
猛進してくる群れから逃げるように、〈降臨の塔〉に転がり込んだカノンは、
「ヴィオレン……ツァエストロ・アウフ……」
差し迫ったこの状況を忘れて、シェントの詠唱に聴き入ってしまいそうになった。
背後のラウダ神に歌い聴かせるかのごとく、彼はステンドグラスの前で朗々と呪文を紡いでいる。
そのシェントに目配せし、カノンは彼の後ろに回り込んだ。直後、コデッタの群れが塔内に飛び込んできた。
シェントは一際低い声で、詠唱の終わりを――科術の発動を告げた。
「精霊よ、世の理乱す我を赦したまえ――〈鎌鼬〉」
斧槍を横に薙ぐ。突風が吹き荒れ、三日月の形をした無数の〈風〉の刃がコデッタに襲いかかる。
本来であれば風そのものは目に見えない。しかし自然の風とは違い、科術の〈風〉は可視である。
風に舞う草葉のような〈鎌鼬〉が、コデッタに鋭く襲いかかる。
きゅ――っ!?
〈鎌鼬〉に斬りつけられ、虹色の光へ姿を変えるコデッタ。
まるで幻だったかのように。コデッタが襲ってきたことすら、夢だったかのように。
拍子抜けするほどあっけない幕引きだった。
「カノン、大丈夫だったか? 怪我してない?」
「うん……私は大丈夫」
心ここにあらず、といったふうにうなずくカノン。
〈鎌鼬〉という大仰な科術を目にして、彼女は〈塔〉の傷を心配しているのかもしれない。
シェントは塔の中央にしゃがみ込んで床板を凝視した。数え切れないほどの細かな傷が入ったせいで、床の幾何学模様が掠れてしまったように感じる。
(やっぱり、〈鎌鼬〉を使ったのはまずかったか……)
馬鹿げた妄想かもしれないが、集まったコデッタが再び巨大化しないとも限らない。だから上級科術の〈鎌鼬〉で、コデッタの群れを迎え討つことにしたのだが――
苦い顔をしながら頭を上げ、壁画に目をやる。この距離ではわからないが、壁の塗料もところどころ剥がれているかもしれない。
冷や汗をかき始めたシェント。
その背中に、カノンは静かに声を投げかけた。
「ありがとう、コデッタを倒してくれて。それに……きれいだった」
「え……?」
予想だにしてなかった言葉に目を丸くして振り向くと、彼女は淡々と続けた。
「レジェールの遺体を、まだ見てないからなのかしら。レジェールが殺された実感はないのに、コデッタはあっけなく死んじゃって」
涙を流す代わりに、すべての感情を捨ててしまったかのような顔をして。
カノンは最後に呟いた。
「私は、何を恨めばいいのかな……」
シェントがカノンを連れて〈降臨の塔〉から出ると、守護者が揃って深々と頭を下げた。
「君の作戦のおかげで、魔物を倒すことができた。心から感謝している」
「い、いえ。俺一人では、あの作戦も実行できなかったので……」
統率の取れたその動きに、シェントは身体を若干後ろに引きながら言った。
町を回ってコデッタを引き連れてきた――コデッタ自身も仲間を呼び集めた――とはいえ、まだ討ち漏らしもあるだろう。
「引き続き町を警らするように。場所は、第一班が――」
団長が指示を飛ばしていると、神殿のほうから十人あまりの町民が駆け寄ってきた。
彼らを安心させるため、団長は指示を中断して穏やかな声で告げる。
「科術使いの協力もあって、魔物はあらかた倒しました」
不安と恐怖に顔を強ばらせていた町民たちが、一転して安堵表情を見せる。
だが、団長の言葉に引っ掛かりを覚えたのか、途端に怪訝な顔をした。
「ラウダ様は降臨されていないの?」
「科術……って、どういうことだ?」
「〈塔〉にコデッタを集めて、科術で一掃したんです」
団長の言葉に顔を見合わせ、〈降臨の塔〉へ一斉に駆けていく。
開け放たれた扉から塔内を覗き込んだ彼らは、後を追ってきた守護団を口々に責め立てた。
「科術なんて使ったら、塔が傷つくじゃないの!」
「〈塔〉には聖女様しか入れないんじゃなかったのか!?」
団長が口を開くより先に、シェントが町民の前に立った。
「コデッタは小さすぎて、剣や弓矢は当たらないんです。一か所に集めて、科術で倒すほうが効率的――」
「効率のために、〈塔〉に入ったってわけ?」
「科術使いってことは、よそ者だろ? 守護団は何をやってんだ!」
「むしろ守護団が率先したんですよね。〈塔〉やラウダ様を軽視してませんか?」
シェントの弁明に割り込んで、町民が非難の声を上げる。
「シェントはラティーを救ってくれたのよ!」カノンが負けじと声を張る。「塔は修復すればいいじゃない!」
「修復? 『寄付』って名目で、また俺たちから金を取るのか?」
「カノン、下がって」
守護者である彼女が庇ったところで、話はますます拗れるだろう。シェントはカノンの肩を掴んで引き下がらせた。
その二人を守るように、団長が町民の前に立ちはだかる。
「詳しいことは後ほど説明します、今ここで争っても仕方がな――」
「その科術使いを追い出せ!」
気色ばんだ町民たちは、もはや団長の声すら耳に入っていないようだった。
唐突に、守護者とバッソがその場に跪く。
自分たちに非があると認めるのか。眉をひそめるシェントだが、その行動の理由はすぐにわかった。
「何の騒ぎですか」
静かだが良く通る清らかな声に、町民たちが弾かれたように振り返る。ハノンの姿を認識すると、揃って膝を折り頭を垂れた。
ハノンから一番離れたところにいたシェントも、周りに倣って膝をついた。
頭を下げる直前、ちらりとハノンをうかがい見る。
カノンの姉だけあって、髪や瞳の色だけでなく、目鼻立ちもほとんど同じだ。
ただ、身にまとっている雰囲気はまるで違っていた。溌剌としたカノンに対し、ハノンのほうは一見すると冷たい印象を受ける。彼女の怜悧な表情は、胸の内を隠す仮面のようにも思えた。
そのハノンが厳しい声音で言う。
「何があったんですか。魔物はどうしたんですか」
団長に説明を求めたハノンは、彼の話を聞きながら、この場を収める言葉を探していた。
「――経緯はわかりました。皆、頭を上げなさい」
後ろめたさを感じているのか、守護者も町民もハノンと目を合わせなかった。カノンだけは、姉妹喧嘩をしたときのようにハノンを睨んでいる。
騒動の中心にいる少年もハノンに目を注ぎ続けている。しかしその金色の瞳は、何の感情も映していなかった。
彼にとっては自分のことすら他人事なのだろう。だから、彼を利用しても恨まれない気がした。
ラティーの人間同士が争うようなことだけは、あってはならない。
「その旅人が〈降臨の塔〉でコデッタを倒せたのは、ラウダ様が御力をお与えになったからでしょう。ですが、〈塔〉を傷つけたことを見過ごすわけにはいきません」
ハノンはシェントではなく、適当な町民に顔を向けながら言う。
「彼を追放処分とします。即刻、荷物をまとめてラティーを去りなさい」
「待ってくれ、彼に加勢を頼んだのはオレだ」
下手に口を挟まず、じっと耐えていたバッソがハノンの前に出てきた。
「バッソさん、お久しぶりですね。加勢を……というのは、昔の贖罪のつもりですか?」
「……ハノンの親父さんを、あのとき見殺しにしちまったからな」
「あれは事故です。バッソさんは悪くないと、そう聞きました。……ただ、あなたも彼と同罪だというのなら、共にラティーから出ていってください」
決定が覆らないことを悟ったバッソは、シェントに「悪かった」と頭を下げた。
「いえ、俺もそろそろ、ここを発つつもりでしたし」
もともとラティーの人間ではないシェントは、追放を言い渡されたところで痛くも痒くもない。
よそ者の自分が、責任を取ってここを出ていく。それで町民の溜飲が下がるのなら構わないと思った。
「どうしてシェントを悪者にするの!?」
「ちょっ、カノン?」
ハノンに詰め寄るカノンの手を、シェントはとっさに掴んだ。
「怒ってるのか?」
「当り前じゃない! だって、シェントはコデッタを倒してくれたのに……っ」
「でも、追放といったって、もともと旅人だから構わな――」
「そういう問題じゃないでしょ!!」
彼女の手を取ったまま、シェントは助けを求めるようにハノンを見る。
ハノンはシェントから目を逸らして言った。
「カノン、彼を外の森まで連行しなさい。裏の門から出ればすぐでしょう」
「俺からも頼むよ。表通りは混雑してたし」
シェントとしてもラティーを出ていくつもりだったのだ。追放されることに不服はない。
「なによ、シェントまで……悔しくないのっ!?」
すっかり静まり返った町民たちを睥睨し、カノンはシェントを置いて走り去っていった。
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