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 ――会ったところでどうするのか。

 

 自問を繰り返しながらも、シェントは少女のもとへ足早に近づいていく。

 少女は窓に面した席に腰かけ、外の風景を眺めていた。否、正確にはガラスに反射する店内を見ているのだろう。その証拠に、窓に映る彼女と目が合ってしまった。

 とうとう心を決めたシェントは、

 

「昨日はどうも」

 

 皮肉の響きを込めて彼女に話しかけた。

 

「昨日?」

 

 白いワイシャツと色褪せた黒のズボンという簡素(シンプル)な服装をした少女が、冷めた目で振り返る。

 

「その声……おまえ、どこかで――」

「だ、だから昨日、そこの森で!」

 

 シェントの声は変に裏返った。

 少女は軽く目を閉じ、

 

「――ああ、あのときの」

 

 数秒かけてようやく思い出したようだった。

 だが――

 

「ここまで来るとは、いったい何の用だ?」

 

 あらぬ誤解、再び。

 少女は腰を浮かせ、(もも)に装備している棒手裏剣(スローイングナイフ)に右手を添えた。

 

「偶然だ、偶然っ!」

 

 とっさに(わめ)くシェント。

 自分と同年代だと思われるこの少女は、どうも早合点が過ぎるというか、常に何かを警戒しているように見える。その姿は路地裏を忍び歩く猫を連想させた。

 

「……そこ、誰か来る?」

 

 シェントは隣の椅子に目を落とした。そこには彼女の黄土色のコートが置かれている。

 

「……」

 

 少女はコートを(ひざ)に乗せ、無言で窓のほうに向き直った。

 シェントは椅子に腰かけると、彼女の空のグラスに目をやり、通りかかった給仕を呼び止めた。「ワインを二杯」と注文を口にして、

 

(さっきの勘定、払ってない)

 

 はっとして顎髭(あごひげ)の席を振り返った。

 視線を察知したのか、顎髭は歯を見せながら笑い、ぐっと親指を立てた。

 彼に軽く頭を下げてから、シェントは改めて少女に話しかけた。

 

「ええと、俺はシェント。君は?」

「――アレグロ」

 

 少女――アレグロはこちらに顔を向けるでもなく、独り言のように呟いた。そのせいで、それが彼女の名だとすぐには気づかなかった。

 

「アレグロは昨日、どうしてあんなところにいたんだ?」

「おまえのほうこそ」

「俺? ちょっと一狩りしようかと」

 

 曖昧に答えながらシェントは少女の横顔を盗み見る。顔立ちには幼さが残っているが、物事を諦観(ていかん)しているかのような、気怠(けだる)げな表情が貼りついていた。

 そのアレグロが、「そんな得物(ぶき)で?」とテーブルに立てかけられた長物を一瞥(いちべつ)する。

 若草色の布に包まれているそれは、シェントの「科器(かき)」――斧槍(ハルバード)だ。穂先にある三日月型の斧頭と、小型の鉤爪(かぎづめ)が、刺突や斬撃など多彩な攻撃を可能にする。一方で、身長より長いそれを振り回すにはある程度の空間(スペース)が要求される。

 斧槍使いが単身で森に踏み込むことは自殺行為に等しいと、シェントも重々承知していた。

 

「金がなかったからな。旅の途中で仕事してたら、大会に間に合わなかっただろうし」

 

 所持金をかき集めてルーエに入ったところで、宿代はおろか、食事代すら払えそうになかったのだ。街中で野垂れ死ぬよりも、森で魔獣にひと思いに殺されるほうが、まだ矜持(プライド)を保てる。

 貧乏な旅を続けてきたシェントからすれば、アレグロは金に困っているように見えなかった。清潔そうな白いワイシャツは最近買い替えたものだろう。危険を冒してまで狩りをする必要などなかったはずだ。

 

「そこまで急いでいたのなら、おまえも大会に出場するのか?」

 

 問いに問いで返されたときには会話を拒んでいるのかと思ったが、意外にも彼女は質問を続けた。

 

「いや、せっかくだから見に来ただけさ。五年に一度しかないって聞いたから」

「……観戦のためだけに、路銀も稼がずここまで来たのか」

 

 アレグロに呆れ顔を向けられて、シェントは言い訳のように旅の理由を語る。

 

「ちょうど家を追い出されたんだよ、数か月前に。せっかく旅するなら、いろいろと見て回りたいと思ってさ」

「そう……」

 

 アレグロはグラスに手を伸ばした。しかしそれはすでに空で、所在なげに指でグラスをなぞる。

 

「おまえも、一人なのか」

「あ……」

 

 シェントの憶測が確信に変わった。仲間と別行動をしている可能性も考えたが、やはり彼女は一人で旅をしているようだ。

 女の一人旅ならば、良くない(やから)に声をかけられることも少なくあるまい。彼女の硬い口調も、他人(ひと)を寄せつけないために身に着けたものかもしれない。

 旅の理由を尋ねていいものかとシェントが逡巡していると、給仕がワインを運んできた。

 

「お待たせしましたー」

 

 (おご)るつもりで注文したものの、金がないと打ち明けたばかりできまりが悪い。グラスを手に取ったシェントは、アレグロに乾杯を促せなかった。

 アレグロがワインを見つめたまま口を開いた。

 

「あのまま一人だったら、私は死んでいたのだろうな」

「え、なんで?」

 

 シェントが聞き返すのももっともだった。自分などいなくとも、彼女一人でカルカンドを倒せたのだから。

 しかしアレグロは答えず、背後の柱時計を確認すると立ち上がってコートを羽織(はお)った。その(すそ)は膝下まであり、前身頃のボタンをとめると腿の棒手裏剣が隠れた。

 

「時間か」

 

 つられてシェントも時計を振り返る。針は十一時を指していた。あと一時間もしないうちに本日の第二試合、話に聞いた優勝候補(バッソ)の初戦が行われるのだが――つまりは。

 

「バッソの初戦の相手って、もしかして――」

「バッソ? ああ、そのような名前だったかもしれない」

 

 アレグロは紙幣と文鎮代わりの硬貨をテーブルに乗せ、シェントが呼び止めるのも聞かずに颯爽と去っていった。