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「…………」

 

 斧槍を握る手に力が入る。

 地面にはボールと、片方だけの靴が転がっている。友だちと一緒に遊んでいたのだろうか。男の子の靴は脱げていなかった。

 一人置いていかれた彼の脚に、背に、頭に。コデッタが群がり、(うごめ)いている。

 もはや苦鳴すら上げていなかったが、まだ息はあるように見えた。

 だが、コデッタを追い払ったところで、彼が助かるとは限らない。傷口からの感染症で死ぬ可能性もある。

 そう自分に言い聞かせ、シェントは数歩後ずさった。

 

(勝算もないのに助けたところで――)

 

 科術の発動には時間が必要だ。当然、コデッタは待ってくれない。

 男の子を助けるには、コデッタの注意を引きつけて遠くまで走るしかないのだ。

 しかし途中で誰かに遭遇したら。その人までコデッタに襲われたら。

 唇を痛いほど噛みしめ、(きびす)を返そうとしたシェントは、

 

「お母さぁ……助け……」

「ああちきしょう!」

 

 ボールをコデッタに力いっぱい投げつけた。

 

 きぃっ!?

 

 一匹、また一匹と、男の子の体からコデッタが()がれていく。

 

「誰かその子を――!」

 

 介抱してやってくれ、と願いながら。シェントは向かってくるコデッタに応戦するでもなく、脱兎のごとく走り出した。

 直感だけを頼りに路地裏を駆け抜ける。

 もしも行き止まりの道を選べば、すぐにコデッタに追いつかれて食い殺されるだろう。

 必死になって逃げていると、視界の先に二股の道が現れた。

 

「こっちだ!!」

 

 上り坂になっている右側の道から、低く鋭い声が飛んできた。

 その声にシェントは聞き覚えがあった。禿頭と右頬に傷跡がある彼は、武闘大会でのアレグロの対戦相手だった。

 

「バッソさん!?」

 

 大剣を握ってはいるが、構えることなく刃先を地面に向けている。酒場の前なのか、彼の(かたわ)らには酒樽が鎮座していた。

 そして、道の途中には土嚢(どのう)が積まれていた。

 しかし高さは(すね)までしかない。コデッタも楽々跳び越えてしまう。 

 シェントがコデッタを連れて坂を駆け上がると、バッソは剣を地面と水平に構えた。

 

「ハァッ!!」

 

 気合一閃、樽に剣を叩きつける。

 中から溢れ出たワインが、コデッタを押し流していく。

 そのワインとコデッタを土嚢がせき止めた。

 

 きゅっ、きゅいぃぃ!

 

 浅く溜まったワインの水面で、コデッタがじたばたともがく。

 

「でえええい!」

「えっ」

 

 バッソはひび割れた樽を横にして持ち上げ、コデッタ目掛けて投げ落とした。

 彼の横で呼吸を整えていたシェントは、驚きのあまり一瞬息を詰まらせる。

 バシャッ、とワインが跳ねた。

 コデッタは虹色の粒子となり、風に乗って霧散した。

 

「……まさか、今の衝撃で死んだのか? 単に、コデッタが水面に浮かんでこないように、と思ったんだが……」

 

 拍子抜けしたように言うバッソに、シェントは「助かりました」と頭を下げる。今になって冷や汗がどっと吹き出した。

 

「それにしても、ラティーでバッソさんに会うとは」

「これも仕事のうちでな。武闘大会で魔物騒ぎがあったんで、要所に軍が派遣されてるのさ。俺はもともと守護団に所属してたから、無理言ってここに来たってわけよ」

 

 ワインのかかった両手をバッソはぷらぷらと振った。

 

「――作戦は上手くいったのか」

 

 店の扉が静かに開かれ、中からバッソと同じ年くらいの男が出てきた。

 

「おまえのワインと、たまたま通りかかった少年のおかげでな」

 

 シェントが軽く会釈(えしゃく)すると、男はばつが悪そうに眼を()らした。

 

「……あと一樽、それ以上は無理だ。こっちも生活があるんでな」

「おう、持ってきてくれ。請求書は王国軍宛てで頼む。――それと、タオルもいいか?」

 

 男は無言で酒場に戻った。

 扉が閉まり、内側から鍵をかける音がした。

 

「どうせすぐ出てくるのに、なあ?」

 

 バッソがからりと笑い、シェントは苦笑いで返した。

 コデッタの侵入を恐れてのことだろう。あるいはバッソへの当てつけなのか。

 バッソ自身もそれは感じているはずだった。

 

「しかし、俺はあんな数のコデッタに追いかけられてたのか……かなり増えてる気もするけど」

「コデッタってのは、危険を察知すると仲間を呼び寄せるんだとよ。なんでも、人間に聞こえない音で交信してるらしい」

 

 コデッタの習性を解説し、バッソは肩をすくめた。

 

「数が数だからな、ちまちま攻撃してても終わりが見えん。水を使えば一気に(ほうむ)れるんじゃねえかと思って、酒屋の知り合いに協力してもらったのさ。あとは守護団と協力して、似たような罠をいくつか仕掛(しか)けりゃいいだろう」

「――さっきの俺のようにコデッタを引き連れることができれば、俺の科術でコデッタを一掃できると思います」

 

 シェントは冷や汗もそのままに、にやりと笑ってみせた。