28
玄関に続く廊下の窓を拭いていたカノンは、外を眺めてため息をこぼした。
「カノンさん、具合でも悪いんですか?」
「えっ、どうして?」
「何度もため息をついているので……」
廊下を箒で掃いていたファルルが、眉尻を下げてカノンを見つめる。
「違うわよ。ええと……簡単に取れない汚れは、こうやって拭かない?」
「なるほど、生活の知恵というものですね」
感心したようにうなずくファルルに、カノンは苦笑いを浮かべた。
再び窓の外に目をやれば、手を繋いで帰ってくるシェントとアレグロが見えた。
(急に進展してるじゃない! ……でも、表情が硬いような……?)
二人の姿が宿舎に消えた直後、扉が閉まる大きな音がした。
カノンとファルルは顔を見合わせ、玄関へ急いだ。
「な、何かあったの?」
買い物帰りだというのにシェントは荷物を持っていなかった。肩で息する彼の後ろには、アレグロが隠れるように立っている。
「商店街にコデッタの群れが出た。百とか二百とかじゃない、何匹いるのか見当もつかないくらいで――」
「ど、どういうこと?」
思わずカノンは聞き返した。
コデッタは「一を見たら十はいると思え」と言われている魔獣だ。それでも、百や二百という大群は聞いたことがない。
「最初は、家ぐらいの巨大なコデッタ一匹だったんだ。誰かが攻撃したら破裂して、普通の大きさのコデッタに分裂して……ごめん、なんて言ったらいいんだろう」
説明のしようがないのか、シェントが途方に暮れた顔で話した。
「なによ、それ……」
カノンは愕然とした。
コデッタは比較的よく見る魔獣だが、靴や箒で叩いたり、毒草を混ぜた団子を巣の近くに置いたりしておけば、簡単に駆除できる。
そのコデッタがどういうわけか巨大化し、商店街という町の中心部に出現した。
それでは、まるで――
「魔物……だと思う」
シェントが絞り出すように言った。
「魔、物……!?」ファルルの手から箒が滑り落ちる。「もしかして、魔族がここに――」
「違う!!」
アレグロが叩きつけるように叫んだ。
「違う……! ちが、う……魔族、なんかじゃ……」
駄々をこねる子どものように頭を振っていたが、ふいに前に倒れ込む。
「アレグロ!?」
彼女を受け止めたシェントは、そのまま横抱きに抱え上げた。
「……ショックが大きすぎたんだ。部屋で休ませよう」
「私……っ、魔物のこと、守護団の皆に伝えてくるわ! シェントとファルルも部屋にいて!」
今の時間、守護者の大半は外に出て町を巡回している。ひとまずカノンは走って執務室へ向かった。
シェントはアレグロをベッドに横たえさせると、彼女の額をそっと撫でた。
――魔物に遭遇したことで、忘れていた記憶を思い出したのではないか。
その懸念を払うように頭を振って、ファルルに告げる。
「脱出経路を考えてくる。下手に逃げようとしても、混乱に巻き込まれるだろうし」
「ラティーを出るつもりなんですか?」
「護衛を探すのは別の町でもいいだろ? そこまでは一緒についてってやるから」
「い、いえ、そうではなくて……武闘大会の騒動では、カルカンドを倒されたと聞いていたから……」
「――今回は戦わないのか、って?」
ファルルの言わんとすることを察し、シェントは乱雑に頭を掻いた。
「あのときはアレグロを助けたかっただけだ。彼女がどうして逃げなかったのかは知らないけど。
それに、ラティーには守護団があるから大丈夫だろ。ここを出るかどうかは、彼らの戦況も踏まえるさ」
ファルルに背を向けて一方的に喋り、壁に立てかけていた斧槍を手に取る。それを包む若草色の布を外しながら、シェントはぽつりとこぼした。
「……俺の故郷も、魔物に襲われたんだ」
背後でファルルが息を飲んだ。
同情の言葉をかける間も与えず、シェントは正直な思いを吐露する。
「カノンやラティーの人たちに、同じような辛い思いはさせたくない。でも……俺が優先すべきは、君たちを守ることなんだよ」
世話になったカノンを見捨てて逃げ出すことに、多少なりとも罪悪感があった。敵前逃亡を正当化したい気持ちも。
だが――誰も彼も救おうとしたせいで。故郷に魔物が出現したあの日、取り返しのつかない過ちを犯した。
「……そういうわけだ。ここで待ってて」
アレグロを一瞥したシェントは人知れず奥歯を噛み、静かに部屋を出ていった。
♪ ♪ ♪
平生であれば人で賑わう日中。
しかし魔物が現れたとあって、町民は家屋に引っ込むか、避難場所である神殿へ向かうかしている。巡礼者や商人といった旅人たちは、馬車が通れる唯一の大通りに詰めかけていた。
馬車を持っていない者ですら、そこを通って外へ出ようとしているのだ。通りは馬車と人で溢れかえり、混乱に陥っていた。
一方で、人が密集しているからこその安心感もそこには漂っていた。これだけ人がいるのだから自分は狙われない、襲われるのは別の誰かだ――という、妙な安心感が。
そのせいか、人々は勝手なことを喚き散らしていた。
「荷に触るんじゃない! 大切な商品なんだぞ!?」
横転した馬車が道を塞ぎ、持ち主らしき男が周囲に怒号を飛ばしている。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!?」
「こっちの馬車が通らねえんだよ‼」
騒ぎを遠巻きに見ていたシェントはその場を離れ、細い路地に入った。
表のほうとは打って変わって、馬車はもちろん人の姿もない。コデッタといえば狭い所に潜む印象が強いため、わざわざ路地裏を通る人間もいないのだろう。
二人を連れて逃げるための経路を、シェントは自分の足で探すことにした。
(守護団が討伐するのを待つって手もあるけど、期待はできないだろうしな……)
コデッタは身体が小さく、剣や槍での攻撃はまず当たらない。それよりも踏み潰したほうが早いのだが、今回は数が多すぎる。あっという間に囲まれて物量で圧されるのが関の山だ。
その点科術であれば、詠唱に時間はかかるが敵を一網打尽にできる。
だが、在野の科術士はそう存在しない。大抵は国の軍に所属するか、金のある者に雇われるかしている。高い給与を払って科術士を雇うことは、貴族や大商人にとって社会的地位を示すことにも繋がる。
この場に科術士がいたとしても、護衛として雇われている可能性が高い。雇い主を逃がすだけなら、ラティーのコデッタを一掃する必要などない。
――それは自分も同じなのだが。
はたとシェントは立ち止まった。
どこからか、泣き声とも呻き声ともつかない声が聞こえてくる。
(いま通り過ぎた場所か……?)
一つ目の角を左へ曲がり、少し先のほうへ視線をやる。
そこには男の子が一人、足をこちら側にしてうつ伏せに倒れていた。
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