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 玄関に続く廊下の窓を拭いていたカノンは、外を眺めてため息をこぼした。

 

「カノンさん、具合でも悪いんですか?」

「えっ、どうして?」

「何度もため息をついているので……」

 

 廊下を(ほうき)()いていたファルルが、眉尻を下げてカノンを見つめる。

 

「違うわよ。ええと……簡単に取れない汚れは、こうやって拭かない?」

「なるほど、生活の知恵というものですね」

 

 感心したようにうなずくファルルに、カノンは苦笑いを浮かべた。

 再び窓の外に目をやれば、手を繋いで帰ってくるシェントとアレグロが見えた。

 

(急に進展してるじゃない! ……でも、表情が硬いような……?)

 

 二人の姿が宿舎に消えた直後、扉が閉まる大きな音がした。

 カノンとファルルは顔を見合わせ、玄関へ急いだ。

 

「な、何かあったの?」

 

 買い物帰りだというのにシェントは荷物を持っていなかった。肩で息する彼の後ろには、アレグロが隠れるように立っている。

 

「商店街にコデッタの群れが出た。百とか二百とかじゃない、何匹いるのか見当もつかないくらいで――」

「ど、どういうこと?」

 

 思わずカノンは聞き返した。

 コデッタは「一を見たら十はいると思え」と言われている魔獣だ。それでも、百や二百という大群は聞いたことがない。

 

「最初は、家ぐらいの巨大なコデッタ一匹だったんだ。誰かが攻撃したら破裂して、普通の大きさのコデッタに分裂して……ごめん、なんて言ったらいいんだろう」

 

 説明のしようがないのか、シェントが途方に暮れた顔で話した。

 

「なによ、それ……」

 

 カノンは愕然(がくぜん)とした。

 コデッタは比較的よく見る魔獣だが、靴や(ほうき)で叩いたり、毒草を混ぜた団子を巣の近くに置いたりしておけば、簡単に駆除できる。

 そのコデッタがどういうわけか巨大化し、商店街という町の中心部に出現した。

 それでは、まるで――

 

「魔物……だと思う」

 

 シェントが絞り出すように言った。

 

「魔、物……!?」ファルルの手から箒が滑り落ちる。「もしかして、魔族がここに――」

「違う!!」

 

 アレグロが叩きつけるように叫んだ。

 

「違う……! ちが、う……魔族、なんかじゃ……」

 

 駄々をこねる子どものように(かぶり)を振っていたが、ふいに前に倒れ込む。

 

「アレグロ!?」

 

 彼女を受け止めたシェントは、そのまま横抱きに抱え上げた。

 

「……ショックが大きすぎたんだ。部屋で休ませよう」

「私……っ、魔物のこと、守護団の(みんな)に伝えてくるわ! シェントとファルルも部屋にいて!」

 

 今の時間、守護者の大半は外に出て町を巡回している。ひとまずカノンは走って執務室へ向かった。

 

 

 

 

 

 シェントはアレグロをベッドに横たえさせると、彼女の額をそっと()でた。

 ――魔物に遭遇したことで、忘れていた記憶を思い出したのではないか。

 その懸念を払うように頭を振って、ファルルに告げる。

 

「脱出経路を考えてくる。下手に逃げようとしても、混乱に巻き込まれるだろうし」

「ラティーを出るつもりなんですか?」

「護衛を探すのは別の町でもいいだろ? そこまでは一緒についてってやるから」

「い、いえ、そうではなくて……武闘大会の騒動では、カルカンドを倒されたと聞いていたから……」

「――今回は戦わないのか、って?」

 

 ファルルの言わんとすることを察し、シェントは乱雑に頭を()いた。

 

「あのときはアレグロを助けたかっただけだ。彼女がどうして逃げなかったのかは知らないけど。

 それに、ラティーには守護団があるから大丈夫だろ。ここを出るかどうかは、彼らの戦況も踏まえるさ」

 

 ファルルに背を向けて一方的に喋り、壁に立てかけていた斧槍(ハルバード)を手に取る。それを包む若草色の布を外しながら、シェントはぽつりとこぼした。

 

「……俺の故郷も、魔物に襲われたんだ」

 

 背後でファルルが息を飲んだ。

 同情の言葉をかける()も与えず、シェントは正直な思いを吐露(とろ)する。

 

「カノンやラティーの人たちに、同じような辛い思いはさせたくない。でも……俺が優先すべきは、君たちを守ることなんだよ」

 

 世話になったカノンを見捨てて逃げ出すことに、多少なりとも罪悪感があった。敵前逃亡を正当化したい気持ちも。

 

 だが――誰も彼も救おうとしたせいで。故郷に魔物が出現したあの日、取り返しのつかない(あやま)ちを犯した。

 

「……そういうわけだ。ここで待ってて」

 

 アレグロを一瞥(いちべつ)したシェントは人知れず奥歯を噛み、静かに部屋を出ていった。

 

 

   ♪ ♪ ♪

 

 

 平生(へいぜい)であれば人で賑わう日中。

 しかし魔物(コデッタ)が現れたとあって、町民は家屋に引っ込むか、避難場所である神殿へ向かうかしている。巡礼者や商人といった旅人たちは、馬車が通れる唯一の大通りに詰めかけていた。

 馬車を持っていない者ですら、そこを通って外へ出ようとしているのだ。通りは馬車と人で(あふ)れかえり、混乱に(おちい)っていた。

 一方で、人が密集しているからこその安心感もそこには漂っていた。これだけ人がいるのだから自分は狙われない、襲われるのは別の誰かだ――という、妙な安心感が。

 そのせいか、人々は勝手なことを(わめ)き散らしていた。

 

「荷に触るんじゃない! 大切な商品なんだぞ!?」

 

 横転した馬車が道を塞ぎ、持ち主らしき男が周囲に怒号を飛ばしている。

 

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!?」

「こっちの馬車が通らねえんだよ‼」

 

 騒ぎを遠巻きに見ていたシェントはその場を離れ、細い路地に入った。

 表のほうとは打って変わって、馬車はもちろん人の姿もない。コデッタといえば狭い所に(ひそ)む印象が強いため、わざわざ路地裏を通る人間もいないのだろう。

 二人を連れて逃げるための経路を、シェントは自分の足で探すことにした。

 

(守護団が討伐するのを待つって手もあるけど、期待はできないだろうしな……)

 

 コデッタは身体が小さく、剣や槍での攻撃はまず当たらない。それよりも踏み潰したほうが早いのだが、今回は数が多すぎる。あっという間に囲まれて物量で()されるのが関の山だ。

 その点科術であれば、詠唱に時間はかかるが敵を一網打尽にできる。

 だが、在野の科術士はそう存在しない。大抵は国の軍に所属するか、金のある者に雇われるかしている。高い給与を払って科術士を雇うことは、貴族や大商人にとって社会的地位(ステータス)を示すことにも繋がる。

 この場に科術士がいたとしても、護衛として雇われている可能性が高い。雇い主を逃がすだけなら、ラティーのコデッタを一掃する必要などない。

 

 ――それは自分も同じなのだが。

 

 はたとシェントは立ち止まった。

 どこからか、泣き声とも(うめ)き声ともつかない声が聞こえてくる。

 

(いま通り過ぎた場所か……?)

 

 一つ目の角を左へ曲がり、少し先のほうへ視線をやる。

 そこには男の子が一人、足をこちら側にしてうつ伏せに倒れていた。