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「その紐……アレグロも、たまに髪結ぶんだ?」

「違う。シェントに、と思って。いろいろと世話になったから」

「あ……りがとう」

 

 シェントの耳が赤くなる。厚かましくも期待して鎌をかけたことが恥ずかしくなった。

 

「でも、他の物のほうが良かったか」

「手に着けるから! そのほうが、いつでも目に入るし」

 

 見てどうするのかとでも聞きたそうに、アレグロが怪訝(けげん)な顔をしながらシェントに袋を渡す。

 シェントは道の端に寄って立ち止まると、

 

「俺たちの――三人での旅も、もう終わるだろ? その思い出を、何か形として残しておけるのは、嬉しいからさ」

 

 組紐を右の手首に巻きつけながらそう語った。

 

(俺も何か、アレグロに買ってあげればよかったかな。でも――)

 

 ――前を向いて生きると決めた彼女の記憶に、自分の痕跡を残したくない。

 

「貸して」

 

 片手では付けづらいことに気づいたアレグロが、ぐいっと迫ってきた。石鹸の優しい香りがシェントの鼻をくすぐった。

 代わりに紐を結んでもらっている間、

 

(守護団っていい石鹸使ってるんだなあ)

 

 変に意識しないように、彼女と関係のないことを考えてみたりした。

 紐を結び終わったアレグロが、(うつむ)いたまま「あ」と声を漏らす。

 

「どうした? ――ああ、コデッタか」

 

 彼女の視線を追ってみると、足先に一匹の魔獣がじゃれついていた。

 身体の半分を占める長い尾が特徴で、尾を除いた体長は成人男性の(てのひら)ほど。体格は兎に似ているものの、耳は短く丸い。

 狭くて暗い場所に出没することが多く、毛が黒いせいもあって闇に紛れやすい。他の魔獣と違って街中にも出現するが、人間が叩き潰せる大きさであるため、人々も慣れっこになっている。

 アレグロが片足を上げると、コデッタは逃げるように坂を下りていった。

 宿舎に戻ろうと二人が足を踏み出した、そのとき。

 

「きゃああああ!!」

「――っ!?」

 

 後方からの悲鳴に、アレグロは弾かれたように振り返った。

 一方のシェントは一瞥(いちべつ)もせず、「さっきのコデッタだろ」と肩をすくめた。他と比べて馴染(なじ)みがあるとはいえ、コデッタも魔獣には変わりない。それこそ叫んでしまうほど苦手としている人もいるのだ。

 アレグロも「なんでもなかった」と言って(きびす)を返すだろう。

 

「あ……なん、で……」

「アレグロ?」

 

 彼女の(かす)れた声を耳にし、只事(ただごと)ではないと察して振り返る。

 

「……は、はは。やっぱりコデッタだっただろ」

 

 コデッタは人間が踏みつぶせるほど小さな魔獣である。二人がいる場所からは目視できるはずもないのだが――シェントは無理に明るい声で続けた。

 

「…………うん、どう見ても(・・・・・)コデッタだよな」

 

 後ろ足で立ち上がっているそれ(・・)の体長、もとい高さは建物の二階に匹敵していた。

 見たことも聞いたこともないほど巨大なコデッタが、泡を吹きながら痙攣(けいれん)していたのだ。

 

「……」

 

 出店で買い物をしていた人。坂を行き交っていた人。(みな)、一様にコデッタに視線を投じているのだが、騒ぐでも逃げるでもなくその場に固まっている。

 辺りはしんと静まり返り、シェントもまた言葉を失っていた。

 

「はあぁぁ――ッ!!」

 

 静寂を打ち破ったのは気迫のこもった男の声と、

 

「レジェール、よせ!」

 

 彼を制止する怒声だった。

 シェントの位置からは見えないが――警ら中だったレジェールが、巨大コデッタに飛びかかった。

 その大きさに怯むことなく片足を斬りつける。四つ足にして頭を下げさせる心算だった。

 

 ぎぃ――!

 

 狙い通り、コデッタが地に前足をつく。毛は逆立ち、全身がぶるぶると震えている。

 刹那(せつな)、コデッタの身体が弾けた。

 

「なん、だ……?」

 

 予期していなかった展開に、レジェールの動きが止まる。

 破裂したはずのコデッタは血や肉片を撒き散らすことなく、輪郭を残したまま黒色の粒子に分解された。

 点描画のようなコデッタを前に立ちすくむ人々の髪を、生暖かい風が揺らす。

 粒子は風に漂うこともなく、一点に収束して黒い(まる)を形作る。まるで中空にぽっかりと穴が空いたかのように。

 そして。

 

「コデッタ………?」

 

 そこから掌大のコデッタが現れ、重力に引かれて地面に落ちていく。一匹だけでなく、次から次に、連なるようにして。

 穴から生まれ落ちたコデッタはあっという間に積み重なり、地面に山を作った。

 その山の中心で、レジェールはコデッタに仰向(あおむ)けに引き倒された。

 

「――ッ!?」

 

 絶叫を喉奥へ押し返すかのように、口内にコデッタが次々飛び込んでくる。

 全身を嚙みつかれる痛みより、コデッタが()いずり回るおぞましさに悶絶しながら、窒息したレジェールは意識を失った。

 それは、二度と覚めない眠りでもあった。

 

「こ、この、魔物(・・)め!!」

「どっかいきやがれえっ!!」

 

 人々の怒号に答えるように、レジェールに群がっていたコデッタが一斉に離散した。

 

「逃げるぞ!!」

 

 シェントは手提げ籠を投げ捨ててアレグロの腕を(つか)んだ。

 彼女を引きずるように走りながら、状況の整理を試みる。

 そもそも巨大コデッタはどこから現れたのか。アレグロの足にじゃれついていた、あの小さなコデッタが変化(へんげ)したとでもいうのか。

 どうやって。

 どうして。

 

「何なんだよ、いったい!」

 

 考えてもまとまらない。逃げることに専念しようと決める。

 思考することを()めてようやく、シェントはアレグロの足が遅いことに気づいた。腕を引かれているせいで走りにくいのだろう。

 立ち止まって彼女の腕から手を離した。

 

「腕、強く引っ張ってごめん――」

 

 アレグロを振り返り、シェントは息を飲んだ。

 出会った森でも、ルーエの闘技場でも、彼女は冷静かつ果敢に魔獣に立ち向かっていた。

 そのアレグロが、身を小さくして震えている。

 

「はっ……はあ……」

 

 大した距離は走っていないのだが、息もすでにあがっていた。

 

「まさか、怪我(けが)でもした!?」

「う、ううん。大丈夫、だから……」

 

 彼女は弱々しく首を振る。答える声はか細く、口調も普段のそれとは違う。

 シェントは忌々しさに歯噛みした。

 脳裏に浮かぶのは、魔物に蹂躪(じゅうりん)された故郷の光景。遠い昔のことに感じるが、あれからまだ半年しか経っていない。

 

「……ひとまず、守護団の宿舎に戻ろう」

 

 アレグロの手を取ると、彼女はしがみつくように強く握り返してきた。