27
「その紐……アレグロも、たまに髪結ぶんだ?」
「違う。シェントに、と思って。いろいろと世話になったから」
「あ……りがとう」
シェントの耳が赤くなる。厚かましくも期待して鎌をかけたことが恥ずかしくなった。
「でも、他の物のほうが良かったか」
「手に着けるから! そのほうが、いつでも目に入るし」
見てどうするのかとでも聞きたそうに、アレグロが怪訝な顔をしながらシェントに袋を渡す。
シェントは道の端に寄って立ち止まると、
「俺たちの――三人での旅も、もう終わるだろ? その思い出を、何か形として残しておけるのは、嬉しいからさ」
組紐を右の手首に巻きつけながらそう語った。
(俺も何か、アレグロに買ってあげればよかったかな。でも――)
――前を向いて生きると決めた彼女の記憶に、自分の痕跡を残したくない。
「貸して」
片手では付けづらいことに気づいたアレグロが、ぐいっと迫ってきた。石鹸の優しい香りがシェントの鼻をくすぐった。
代わりに紐を結んでもらっている間、
(守護団っていい石鹸使ってるんだなあ)
変に意識しないように、彼女と関係のないことを考えてみたりした。
紐を結び終わったアレグロが、俯いたまま「あ」と声を漏らす。
「どうした? ――ああ、コデッタか」
彼女の視線を追ってみると、足先に一匹の魔獣がじゃれついていた。
身体の半分を占める長い尾が特徴で、尾を除いた体長は成人男性の掌ほど。体格は兎に似ているものの、耳は短く丸い。
狭くて暗い場所に出没することが多く、毛が黒いせいもあって闇に紛れやすい。他の魔獣と違って街中にも出現するが、人間が叩き潰せる大きさであるため、人々も慣れっこになっている。
アレグロが片足を上げると、コデッタは逃げるように坂を下りていった。
宿舎に戻ろうと二人が足を踏み出した、そのとき。
「きゃああああ!!」
「――っ!?」
後方からの悲鳴に、アレグロは弾かれたように振り返った。
一方のシェントは一瞥もせず、「さっきのコデッタだろ」と肩をすくめた。他と比べて馴染みがあるとはいえ、コデッタも魔獣には変わりない。それこそ叫んでしまうほど苦手としている人もいるのだ。
アレグロも「なんでもなかった」と言って踵を返すだろう。
「あ……なん、で……」
「アレグロ?」
彼女の掠れた声を耳にし、只事ではないと察して振り返る。
「……は、はは。やっぱりコデッタだっただろ」
コデッタは人間が踏みつぶせるほど小さな魔獣である。二人がいる場所からは目視できるはずもないのだが――シェントは無理に明るい声で続けた。
「…………うん、どう見てもコデッタだよな」
後ろ足で立ち上がっているそれの体長、もとい高さは建物の二階に匹敵していた。
見たことも聞いたこともないほど巨大なコデッタが、泡を吹きながら痙攣していたのだ。
「……」
出店で買い物をしていた人。坂を行き交っていた人。皆、一様にコデッタに視線を投じているのだが、騒ぐでも逃げるでもなくその場に固まっている。
辺りはしんと静まり返り、シェントもまた言葉を失っていた。
「はあぁぁ――ッ!!」
静寂を打ち破ったのは気迫のこもった男の声と、
「レジェール、よせ!」
彼を制止する怒声だった。
シェントの位置からは見えないが――警ら中だったレジェールが、巨大コデッタに飛びかかった。
その大きさに怯むことなく片足を斬りつける。四つ足にして頭を下げさせる心算だった。
ぎぃ――!
狙い通り、コデッタが地に前足をつく。毛は逆立ち、全身がぶるぶると震えている。
刹那、コデッタの身体が弾けた。
「なん、だ……?」
予期していなかった展開に、レジェールの動きが止まる。
破裂したはずのコデッタは血や肉片を撒き散らすことなく、輪郭を残したまま黒色の粒子に分解された。
点描画のようなコデッタを前に立ちすくむ人々の髪を、生暖かい風が揺らす。
粒子は風に漂うこともなく、一点に収束して黒い円を形作る。まるで中空にぽっかりと穴が空いたかのように。
そして。
「コデッタ………?」
そこから掌大のコデッタが現れ、重力に引かれて地面に落ちていく。一匹だけでなく、次から次に、連なるようにして。
穴から生まれ落ちたコデッタはあっという間に積み重なり、地面に山を作った。
その山の中心で、レジェールはコデッタに仰向けに引き倒された。
「――ッ!?」
絶叫を喉奥へ押し返すかのように、口内にコデッタが次々飛び込んでくる。
全身を嚙みつかれる痛みより、コデッタが這いずり回るおぞましさに悶絶しながら、窒息したレジェールは意識を失った。
それは、二度と覚めない眠りでもあった。
「こ、この、魔物め!!」
「どっかいきやがれえっ!!」
人々の怒号に答えるように、レジェールに群がっていたコデッタが一斉に離散した。
「逃げるぞ!!」
シェントは手提げ籠を投げ捨ててアレグロの腕を掴んだ。
彼女を引きずるように走りながら、状況の整理を試みる。
そもそも巨大コデッタはどこから現れたのか。アレグロの足にじゃれついていた、あの小さなコデッタが変化したとでもいうのか。
どうやって。
どうして。
「何なんだよ、いったい!」
考えてもまとまらない。逃げることに専念しようと決める。
思考することを止めてようやく、シェントはアレグロの足が遅いことに気づいた。腕を引かれているせいで走りにくいのだろう。
立ち止まって彼女の腕から手を離した。
「腕、強く引っ張ってごめん――」
アレグロを振り返り、シェントは息を飲んだ。
出会った森でも、ルーエの闘技場でも、彼女は冷静かつ果敢に魔獣に立ち向かっていた。
そのアレグロが、身を小さくして震えている。
「はっ……はあ……」
大した距離は走っていないのだが、息もすでにあがっていた。
「まさか、怪我でもした!?」
「う、ううん。大丈夫、だから……」
彼女は弱々しく首を振る。答える声はか細く、口調も普段のそれとは違う。
シェントは忌々しさに歯噛みした。
脳裏に浮かぶのは、魔物に蹂躪された故郷の光景。遠い昔のことに感じるが、あれからまだ半年しか経っていない。
「……ひとまず、守護団の宿舎に戻ろう」
アレグロの手を取ると、彼女はしがみつくように強く握り返してきた。
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