25
「ほら、もうすぐ神殿よ」
川にかかる短い石橋を渡ると、草原が広がっていた。中央にはなだらかな丘があり、外れでは羊が草を食んでいる。
アレグロは来た道を一度振り返った。
「都市と農村が一つになったような町だな、ラティーは」
「大きな川に囲まれていて、城壁があまりないおかげかしら。それでも小さい町だから、道があんなに狭いんだけど」
「あっ、神殿ってあれ? なんか鐘も見えるし」
シェントは丘を越えた先にある巨大な塔を指した。
「ううん、あの塔は聖女様しか入れないの」
「聖女様しか……ってことは、神殿じゃないのか」
「〈降臨の塔〉って言って、いつか再臨されるラウダ様のために、目印として建てられたの。あの鐘も、ラウダ様が降臨した時間に鳴らされるのよ」
「それで十一時に祈るのだな」とアレグロが呟いた。
「ラウダ神はラティー一帯の〈魔〉を滅するのに、一時間もかからなかったと言われてるわ。そして、太陽が一番高く昇ったときにラウダ様も神界にお戻りになったんだって」
「じゃあ……神殿はどこに?」
シェントの問いにカノンはにこりと笑う。
「ここよ」
「『ここ』って言っても――」
シェントが困ったように辺りを見回す。草原にぽつんと建っているのは、神殿にしてはあまりに粗末な小屋だけ。おそらくは畜舎だろう。
再び丘に視線を戻してようやく、麓の石板に気がついた。全長は地面から腰あたりまで。横幅も同じくらいの、正方形の石である。
シェントより先に麓まで歩いていったアレグロが、石板の表面を撫でた。
「これは……文字、か?」
「何か書かれてた?」
シェントはアレグロの隣にしゃがみ、改めて石板に目をやった。研磨された石に見えたそれは、何やら金属のようだった。サビもくすみもなく比較的新しいものに感じるが、表面には古代文字が刻まれている。
「これは――ちょっと読めない、かな」
かつては地域によって言葉が異なり、使われていた文字も現在のものとは違っていたらしい。
「古代文字ですか? だったら……『有事の際にはここに避難せよ』ですね」
ファルルは石板に近づくと、こともなげに読み上げた。
「すごいわ、その文字が読めるの?」
「え、ええ。以前、学んだことがあ――」
「昔、来たことがあるんだろ?」
シェントがファルルの返答を遮った。
「え? はい、幼い頃に一度だけですが」
「だからわかったのね。でも、昔のことなのに覚えてるなんて」
「あの、覚えていたわけではなくて――」
「で……『ここ』ってどこ?」
シェントは立ち上がり、古代文字の刻まれた金属板から離れた。
かつては周辺に建物でもあったのだろうか。多くの人々を守れるような、当時としては頑丈な建築物が。それが長い年月を経て崩れ去ったのかもしれない。
「この文字、他のより深く彫られてるでしょ?」
右端に刻まれた一文字、その窪みに手をかけて、カノンは「えいっ」と金属板を左に滑らせた。
「……扉だったのか」
「頭の上、気をつけてね」
唖然とするシェントに微笑みかけ、カノンは腰を屈めて中へ進んでいった。
目を瞬かせていたアレグロが、彼女の後に続く。
「アル――ファルル、ちょっとこっちに」
二人についていこうとするファルルを呼び止めて、シェントは囁いた。
「古代文字が読めることは隠しておいたほうがいいぞ」
「どうしてですか?」
「今は使われていない文字なんか、生活に余裕がある貴族くらいしか読めないだろ。下手したら身分がバレる」
「そ、そうですよね。ご忠告ありがとうございます」
シェントは小さくうなずくと、ファルルに次いで神殿に入った。
中に入ってまず感じたのは熱気だった。すでに人が密集しており、シェントたちは入って数歩で前に進めなくなった。
しかし天井は高く、その点では圧迫感を感じない。
「思っていたより広いんですね」
「ほんとにな。丘を掘ったんじゃなくて、この建物に草が生えて丘みたいになったのか……?」
丘のような外観からシェントが想像した通り、採光のための窓は一つもない。
室内の光源は、壁に沿って等間隔に置かれた燭台の光石である。燭台は無骨な作りで、半球状の屋根を支える太い柱にも彩色や彫刻は施されていない。
装飾と言えそうなものは、天井近くから垂れ下がる巨大なタペストリーだけだった。
描かれている武神の姿は、腕が四本ある点を除けば人間と大差ない。手にはそれぞれ弓矢や剣、槍を構えていた。
神殿の外から微かに聞こえてくる鐘の音。それと同時に、レジェールを引き連れて壇に上がった人物こそ、当代の守護聖女ハノンである。
一行からは彼女の全身は見えないが――豊かに波打つ白金の髪を背中に垂らし、白地に赤い模様が刺繍された、ゆったりとした服を着用していた。
しんと静まり返った神殿内に、ハノンの澄んだ声だけが響き渡る。集まった教徒と共にラウダに祈りを捧げたあと、祈ることの重要性を説く。
「信ずる心は目に見えません。ですが、それをラウダ様に伝えることはできます。
かつては、魂の次に大切なもの――人や食料を捧げることで、その心を示していましたが、飢饉のときにはそれすら叶わなかったのです。
今の我々は幸福です。『寄付』は、天候という不確定要素に左右されません。魂を込めて労働することが、ラウダ様に祈りを捧げることに繋がるのです」
(……なるほどな)
聖女の説教に耳を傾けていたシェントは、宿舎での豪勢な朝食を思い出した。
「〈魔〉と戦う術を持たぬ者も、心配はいりません。ラウダ様は、かつて共に魔族と戦った『守護者』の子孫に、今なお御力を分け与えてくださっています。
――『信ずる心』があれば、〈魔〉を恐れる必要などないのです」
♪ ♪ ♪
二十歳にも満たないその少女の身体は、年齢に似合わぬほどの成熟ぶりであった。
陶磁のように滑らかな肌を包む、艶やかな純白のドレス。一枚の布を服の形に仕上げただけに見えるそれは、簡素な意匠ゆえに、豊満な身体の線を煽情的に浮かび上がらせている。
娼婦のような艶やかさのある少女だが、ここは娼館ではない。カデンツァ王国の中心、丘の上にそびえ立つ宮殿の一室である。
ソファーに沈み、しなやかな脚を前に投げ出していた少女は、肩上で切り揃えた銀髪をさらりと払った。
「まったく、私たちも嫌われたものよねぇ」
「私たち……? フィーネと、私? それとも、この国?」
フィーネの言葉にかくりと首を傾げるのは、白髪を床近くまで垂らした幼女である。その髪は光の加減によって、貝殻の内側のように虹色に見える
背丈から判断するに十歳前後であろうか。袖のない真っ白なワンピースを着た幼女は、何をするでもなくフィーネの前にぼうっと突っ立っていた。その肌はフィーネ以上に白く、病的に見えるほど。
「どっちもよ」
フィーネは足先に引っ掛けていた赤いハイヒールを脱ぎ捨て、すくと立ち上がった。
「あの国が何を考えているのか知らないけれど、何も考えずに攻めてくればいいじゃなぁい。神が守ってくれているのでしょう? 大戦のときからずっと」
「神、いなかった」
幼女が間髪入れずに否定した。まだ十年しか生きていないように見えるが、まるで当時の大戦に居合わせていて、すべてを知っているかのように。
「ええ、それはもう聞いたわ。けれども彼らはそれをわかっていないのよ。だから教えてあげましょう? ――神はいないということを」
フィーネはうら若き少女のように、無邪気に笑った。
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