23
森を抜け、二基の塔から成る町の裏門を通ってしばらく行くと、三階建ての大きな屋敷が見えてきた。そこに招かれた一行は傷の手当てを受け、空き部屋を借りて一夜を明かした。
部屋には二段ベッドが二台置かれていたが、シェントが目を覚ましたときには誰もいなかった。
「もう朝!?」
慌てて飛び起きてカーテンを開ける。雲の多い空模様だが、朝日はすでに昇っていた。
急いで着替え、いつもの紐で髪を束ねていると、アレグロが部屋に戻ってきた。
「アレグロ! 大丈夫か?」
「シェントのほうこそ」
つかつかとシェントに詰め寄り、アレグロは彼の右手をそっと取った。手首から肘にかけて巻かれた包帯に、うっすらと血がにじんでいる。
「利き手じゃないから平気平気」
無傷の左手をひらひらと振ってみせるシェント。
「ごめんなさい……私が戦えなかったせいで、怪我をさせた」
「いや、これは俺が後先考えずに突っ込んだせいで」
「だが――」
視線をシェントの右腕に落としたまま、アレグロは口を噤む。
腕にワンピースを巻きつけた時点で、何も考えていないわけがない。端から負傷を覚悟しての行動だろう。
しかしそれを指摘したところで、はぐらかされるに違いない。
「……一人のときは、他人から渡されたものを飲むなんて真似、しなかったのだが」
「いいんじゃないか、べつに」
「え?」
アレグロは眉をひそめて顔を上げた。
「俺だって、アレグロに引き止められてなかったら、真っ先に切りつけられてたんだぞ? 騙されて毒を盛られたのも、もとはといえば俺のせいだし」
右手を引っ込め、気まずそうに頭を掻くシェント。
「だから……失敗したって、互いに助け合えばいいだけさ。アレグロも、今は一人じゃないんだから。ずっと気を張ってる必要もないんだよ」
雲の隙間から太陽が顔を出したのだろう。
シェントの背面から急に光が射し込み、アレグロは目を細める。
「シェントは優しいね」
「……っ、誰にでも優しいわけじゃねえよ」
照れ隠しなのか、シェントはぶっきらぼうに言った。
「私がシェントと同じ、独りぼっちだから?」
「そう、だな。だからほっとけないんだ」
「――だったら、私でなくてもいいと思う」
アレグロはまっすぐにシェントを見つめる。
彼の表情は逆光のせいで読み取れない。
「なんだって……?」
「一人で旅をしてる人は、他にもたくさんいるから」
――自分は、シェントが気にかけるに値する人間ではない。
そもそも、魔族は人と呼べるのだろうか。
毒で身体が動かずとも、魔術は発動できたかもしれない。だが、アレグロはそれを試さなかった。
魔術であの場を切り抜けたところで、シェントや守護者に敵とみなされ、戦闘になっていただろう。
自分の身を守るため、魔術を使わない選択をした。たとえ、シェントを見殺しにすることになろうとも。
そんな自分に、彼と共にいる資格などない。
だから――
「護衛の任務が終わったら、他の仲間を見つければいい」
「……じゃあ、アレグロは? また一人になるつもりなのか?」
「私、は……」
口ごもるアレグロに、シェントは食い気味に言う。
「もしも、だけどさ。〈コード〉を探すなら、俺も一緒についてくよ。記憶喪失の君を、一人になんてできないし……」
アレグロの心臓が跳ね上がる。
記憶喪失というのは、自分の正体を明かさずに済むように、とっさについた嘘だ。
その嘘に、これ以上シェントを付き合わせるわけにはいかない。彼の親切心を弄ぶつもりなどなかったのに。
(本当のことなんて言えないから――せめて、私は大丈夫だから気にしないで、って伝えないと)
シェントを見据えたままのアレグロは、無意識にシャツの裾を握っていた。
「〈コード〉のことは、もういい。過去に固執せず、前を向くつもりだ」
「……そ、っか。そうだよな、これからどう生きるかだよな」
うんうんうなずくシェントから視線を逸らし、
「支度が終わったら食堂に来て。朝食、用意してもらったから」
そう言い置いて、アレグロは逃げるように部屋を出た。
部屋に残されたシェントはしゃがみ込み、組んだ両手に額を付けた。
「前を向く、か……」
左腿に巻きつけている革製のポーチに手を伸ばし、紫色の小さな布袋を取り出す。金糸の刺繍が施された袋を開け、中のネックレスを手に取った。
乾いた血が付着していて一部しか見えないが、銀板には模様が刻まれている。
「悪いな、渡せそうにないや」
シェントはネックレスをきつく握りしめ、かつての持ち主に小声で詫びた。
♪ ♪ ♪
「…………」
食堂のテーブルについたシェントは、しばし言葉を失っていた。
大きな一枚皿には白いパンと茹でた卵、新鮮な生の野菜が盛られている。野菜についた水滴が、テーブル横の窓から降り注ぐ光にきらめく。皿の脇にはバターやジャムの瓶が並び、果物の入った籠まで置かれていた。
アレグロとの話で気落ちしていたシェントだが、いつもより豪勢な朝食を前にして、勝手に腹の虫が鳴った。
「……白いパンなんて三か月ぶりか?」
パンをちぎって口に入れ、黙々と食べ進めていく。
すでに食事を終えていた二人も、シェントに付き合って紅茶を飲んでいた。隣で窓越しに中庭を眺めていたアレグロが、「それにしても」と口を開く。
「守護団の宿舎だと聞いたが、かなり立派な造りだな」
「昔、ラティーは領主の居住地でしたから。この建物に住んでいたのではないでしょうか」
アレグロと相対して座るファルル、もといアルトがカップを置いて語った。
その背後から近づいてくるカノンに気づき、シェントは居住まいを正した。膝に手を置いて深々と頭を下げる。
「昨日は危ないところを救っていただいて、何とお礼を言ったらいいか――」
「いいのよ、昨日も言ったでしょ? 守護者として当然のことなんだから、って」
柔和な笑みを浮かべながら、きっぱりと言うカノン。
雪原に咲く花のような可憐さと、芯の強さをシェントは感じた。
「そういえば、『守護者』って何なんだ?」
「平たく言えば、ラティーや周辺を守る自警団かしら。あとは聖女様の護衛とか、儀式でのお手伝いとか。『守護聖女』から任命される公職みたいなものよ」
その守護者の一人、カノンと共に一行を助けたレジェールが、食堂に入ってきた。
落ち着いた色の金髪に、澄んだ海のような碧眼。目を引くような派手さはないが、容姿や言動から品が漂っている。
「やあ、具合はどうだい」
「私はもう大丈夫。世話になった」と頭を下げるアレグロ。
「俺も――」
「シェントはまだ治っていないだろう?」
アレグロはテーブルの下でシェントの右手を握った。
「シェントくん、だっけ。本当に大丈夫かい?」
「だ、大丈夫……です」
心配そうに首を傾げるレジェールに、シェントは俯きながら左手を軽く上げた。
「ところで君たち、今日の予定は?」
「神殿へ行くつもりです」
次の護衛を探すためにラティーを訪れたファルルだが、初日の今日は神殿で祈りを捧げるつもりでいた。
「カノン、案内してきたら? 今日は警らの当番ではないだろう?」
「皆は忙しいのに、私だけそんな……」
「ラティーを案内するのも守護者の立派な仕事だよ」
レジェールはわざとらしく肩をすくめる。
歯切れの悪かったカノンが、灰色の瞳を輝かせた。
「身支度してくるわね!」
「俺もまだ食べ終わってないから、急がなくても――」
聞いているのかいないのか、カノンは慌てたように食堂を出ていった。
ファルルはレジェールに向かって小さく頭を下げた。
「すみません、お忙しいのに」
「お気になさらず。巡礼の時期ではないのだけどね、武闘大会にカルカンドが乱入したせいか、聖地を訪れる方が増えているのさ」
「私たちも似たようなものだな」
アレグロの皮肉めいた呟きにファルルは苦笑いを浮かべた。
グラツィオーソ王国では精霊信仰が一般的である。
種まきの時期には〈土〉の精霊に豊穣を願う。病にかかれば生命力を高めるために、〈炎〉の精霊に祈祷する。そういった呪いが現代でも行われている。
しかし魔族再来の噂が現実味を帯びてきた今、グラツィオーソの守護神ラウダに祈る者が急増したのだった。
「カノンは少々頑張りすぎるきらいがあってね。大人たちに囲まれて育ったせいもあるのかな。ここに滞在中、仲良くしてやってね」
「ここに滞在、ですか」
シェントにしては珍しく渋い顔を見せる。
「こんなにいい食事、何日も食べられるだけの手持ちがなくて……」
「お金のことなら気にしなくていいよ。何週間もここにいるわけじゃないだろう?」
「すみません、恩に着ます。掃除でも洗濯でも、何か手伝えることがあったら――」
「ははっ、それはカノンに聞いてみて」
レジェールはシェントの申し出をやんわりとかわし、目を細めて微笑んだ。
「話し込んで悪かったね、私もそろそろ行くよ。――また神殿で会うかもね」
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