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 斧を手にした人影がそこまで迫ってきているのに、私は地面にへたり込んで呆然(ぼうぜん)としていた。

 

 ――逃げないと、殺される。

 

 早く早くと()かしても、指先すらぴくりとも動かない。

 視界に飛び込んできたのは、見慣れた後ろ姿。背中で踊る金色の髪。

 振り下ろされた(にび)色の斧。

 

 ――ほら、また(・・)殺された。

 

 私は彼女(リーダー)最期(さいご)を覚えていない。

 そのせいかもしれない。この世界でリーダーは、剣で心臓を一突きにされることもあれば、(くわ)で頭を叩き割られることもあった。

 ここは、薄れてしまった記憶をもとに構築された世界――夢の中だ。

 

『アレグロ、逃げな』

 

 背中から仰向(あおむ)けに倒れたリーダーが唇を震わせた。(ひたい)が割れているのに血は全然出ていない。

 夢だから整合性がとれていないのだろうか。そんなことを頭の片隅で考えながら、私はリーダーの近くまで()っていく。

 

『違うよ、私はアーチェだよ……』

 

 リーダーの声はいつもと変わらずはっきりしていたけれど、意識は朦朧(もうろう)としているようだった。

 私がアレグロと名乗るようになったのは『あの日』からなのに、どうしてその名で呼んだのだろう。

 

『ね、リーダーも一緒に逃げよう?』

 

 リーダーは地面に寝転がったまま首を横に振った。

 

『だったら……ルーエで待ってるから。約束したよね、武闘大会で戦ってくれるって。(みんな)も、きっとそこに――』

 

 グランも。

 フォルテも。

 そして、リーダーも。

 

『いないよ。もうわかってんだろ?』

 

 リーダーが悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべた。私はリーダーがきれいな女性(ひと)だと知っていたから、額が割れていても気持ち悪いと感じなかった。

 

『……うん、わかってる。わかってた、けど』

 

 かつての仲間は誰一人として武闘大会に参加していなかった。

 魔物がここ(・・)を襲ってきた『あの日』、私の仲間は死んだのだ。

 私の目の前で。私の知らないところで。

 私を(かば)って殺された。

 仲間を殺したのは魔物ではない。彼らと同じ人間だ。

 

『ルーエへ行こう!』

『陛下を説得するんだ!』

『魔族を殺せ!』

『殺せ!』

 

 遠くに聞こえていた怒号が、すぐ近くにまで迫ってきた。ここはルーエではないのに、おかしなことを叫んでいる。

 

 ――逃げないと。でも、どこへ? ここは、どこなんだっけ。

 

 リーダーの(そば)に座ったまま途方に暮れる私に、誰かが斧槍(ハルバード)を突きつけてきた。

 

『なあんだ。斧じゃなくて、斧槍だったのかい』

 

 リーダーがけらけらと笑う。

 私の目は斧槍に釘付けになっていた。先端で光る〈風〉の科石を見つめながら、私は疑問を口にした。

 

『どうしてここに? だって、これは……シェントに会う前のことなのに』

『夢だからさ』

 

 答えたのはリーダーだった。

 

(だま)してたんだな』

 

 吐き捨てるような言葉に顔を上げると、シェントが冷ややかな目で私を見下ろしていた。

 

『そうさ、アレグロは魔族だよ』

 

 対するリーダーは誇らしげだった。彼女も私の魔術を見たのは初めてだというのに。

 

『っ、(あつ)――!?』

 

 唐突に首の後ろが熱を帯び、私はとっさに手を当てる。

 毒虫に噛まれたような疼きまであるのに、触ってみても傷や腫れは確認できなくて。

 

『な、に……? うっ、く……うぅ……』

 

 ()けるような首の熱さとは対象的に、混乱と恐怖で手足の先が冷たくなっていく。理由(わけ)のわからない灼熱感に(さいな)まれ、苦鳴とも嗚咽ともつかない声が漏れる。

 もうやめて、と懇願しながら。(うずくま)って(うめ)く自分の後ろ姿を、夢を見ている私(・・・・・・・)は俯瞰していた。

 

『ひぐ……っ、あ、あぁぁぁ――!』

 

 絹を裂くような叫びと共に。

 首の真後ろ――何もない宙空の一点から、真っ黒な帯が次から次に、這いずるように出てくる。

 まるで夜を細く切り裂いたような〈闇〉が、幾条(いくすじ)も私の身体に絡みついたかと思うと――夢にも暗幕が降ろされた。