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 廊下に出たシェントは窓から路地を見下ろしていた。

 ここはガス灯の並ぶ表通りから一本入ったところにある。薄暮の中、人々は腰に下げた光石を頼りに宿屋や酒場へ向かっていた。

 今後も光石の値上がりが続き、その明かりを気軽に使えなくなれば、彼らの生活も一変するだろう。

 光石やガス灯といった人工の明かりの出現によって、人々の生活時間や活動範囲は拡大してきたのだ。今さら昔の生活には戻れまい。

 長年続けてきた生活を、生き方を変えるためには、相当の覚悟が必要だ。旅に出たシェントは、それを身をもって実感した。

 

(三人での旅も、もうすぐ終わりか)

 

 シェントは軽く目を閉じた。

 この旅のきっかけにもなった、彼女との出会いが(まぶた)の裏に浮かぶ。赫赫(かっかく)と燃え揺らめく緋色の髪が、シェントの目の奥を()き胸を焦がした。

 

「この先どうすっか……」

 

 シェントが武闘大会に合わせてルーエを訪れた理由。誰にも明かしていないそれは、アレグロと同じく人を探すためである。

 再び会うことも叶わないのであれば、約束も記憶もすべて忘れよう。シェントは過去を清算するため、旅路を急いだのだった。

 アレグロと共にアルトに雇われたのは、人探しをやめた直後だった。

 ラティーに着けば、アルトの護衛も御役御免(おやくごめん)となる。二人と別れた後のことを、自分の身の振り方を、シェントは決めていなかった。

 

(生活には金がいるし、どこかの冒険者組合(ギルド)に登録でもするかな)

 

 自分の将来も、世界の行く末も、考えたところで確かなことなど何一つない。こうして旅に出されることも、まったく予想していなかったのだから。

 それでも、「いつか追い出されるのではないか」という不安は常にあった。だから誰にも嫌われないように、『いい人』であろうと努力していたのだが――

 

(養子といっても、跡継ぎのためじゃなかった。なんで引き取られたのか知らねえけど)

 

 ――誰にも、自分は必要とされなかった。

 

 裏通りを行き交う光石の明かりを眺めながら、シェントはぼんやりと物思いに(ふけ)る。

 ふいに、扉の開く音が聞こえた。

 そちらに目をやれば、アレグロが部屋から出てきたところだった。

 

「――今後のことを話すのではなかったのか?」

「ちょっと一人にしたほうがいいかと思って、アル……ファルルのこと。あんな演説聞いちまったから、動揺してるみたいでさ」

「そう……」

 

 隣に立ったアレグロは、(うつむ)き加減でどこか一点を見ていた。彼女の視線を辿(たど)ってみても、その先の路地には何もない。

 

(アレグロは、これからどうするんだろう)

 

 彼女がアルトの護衛を引き受けたのは、探し人を見つけられなかった失意を紛らわすためだと、シェントはそう理解しているのだが。

 

(一人にするのは心配だし、俺も一緒に探すよ――なんて、言えるわけがないよな)

 

 他に気の利いた話題でもないかと頭を悩ませていると、

 

「シェントは……カデンツァに、魔族がいると思う?」

 

 目を伏せたままアレグロがぽつりぽつりと話し始めた。

 

「カデンツァが――魔族が、争いを仕掛(しか)けようとしていると、そう思う?」

「……どうだろうな」

 

 シェントは窓枠に手を置き、どこまでも続く夕焼けを見上げた。

 藍に紫、赤、橙――さまざまな色が混ざり合う空は幻想的で、非現実的にも感じる。

 

「カデンツァが支配地域を広げてることに、焦ってるんじゃないのか? この国は」

 

 流れ者のシェントとしては、どちらが大陸の覇者になろうが構わなかった。戦闘に巻き込まれたり、支配者層から不当な扱いを受けたりして、命や生活が脅かされるのは勘弁だが。

 はたして敵は魔族なのか。あるいは、グラツィオーソにとってはカデンツァがそうなのか。

 

「だいたいさ、魔族が何なのか知らないのに怖がってるよな」

「――知らないから、怖いのではないか?」

 

 アレグロに指摘され、シェントは遠くを見るように目を細める。

 

「そっか。そうだよな」

 

 生き物は未知のもの、得体の知れないものを恐れ、警戒する。

 かつては暗闇も未知の世界であり、恐怖の対象であった。人類は光石によって闇の恐怖を克服し、夜も活動できるようになったのだ。

 

「シェントは……魔族が怖くないの?」

「……俺、は――」

 

 シェントは口ごもり、視線を落とした。

 今さら怖いと言おうものなら、さっきの発言は自分を棚上げしたことになる。かといって怖くないと答えれば、どうして魔族のことを知っているのかと問い詰められるかもしれない。

 

 ――本心を、本当のことを告げるべきか。

 

 窓枠に添えた手に無意識に力が入って、シェントの指先は白くなっていた。

 

「もう部屋に入ってもいいだろう?」

 

 シェントの返答も聞かず、アレグロはさっさとアルトの部屋に入っていった。

 

 

 

 

 

 明日の簡単な打ち合わせを終えて、自室へ戻ってきたアレグロはすぐさま光石を灯した。

 橙の光で暖を取るかのように――実際には放熱していない――光石を両手で包み込み、ベッド脇の小さな机にそっと置く。椅子の背もたれに脱いだズボンを掛け、シャツを着替えるとベッドに横になった。

 

(意地悪だったかな、シェントにあんなこと聞いて。でも――)

 

 もしも怖くないと言い切れるのであれば、彼は魔族の何を知っているというのか。

 

 ――自分ですら、何もわからないのに。

 

 そんなことを考えながら眠りについたせいか。

 その夜、アレグロは夢を見た。