12
「あー……朝か」
寝覚めは最悪だった。
おそらく夢を見ていたのだろう。内容は覚えていないが悪夢であることは確かで、汗で前髪が額に貼りついていた。
――どうせいつもの夢だろう。
シェントは床に敷いた毛布から身を起こした。隣で寝息を立てていたアルトも、彼にベッドを譲られたアレグロもすでに部屋にいない。どうやら出遅れてしまったようだ。
「ん?」
もう一度ベッドに目をやると、硬貨らしきものが陽光を反射していた。
(アレグロが落としたのかな)
近づいて手に取って見ると、それはアクセサリーだった。硬貨より一回り大きな銀板が革紐にぶら下がっている。ブレスレットにしては少し大きく、チョーカーにしては長さが足りない。おそらくはアンクレットだろう。
何気なく銀板を裏返してみると、そこには刻印が押されていた。円が四つ、十字を描くように配置されている。
「この刻印って――」
食い入るように見つめるシェントの耳に、控えめなノックの音が届くはずもなく。
「シェントさん?」
「どわ!?」
アンクレットをポケットに滑り込ませ振り返ると、身支度を済ませたファルルが立っていた。
「ア、アルトじゃなかったファルル! ノックぐらい」
「しましたけど……」
「ああ、うん。俺が悪かった。どうしたんだいったい」
「なかなか起きて来なかったから、様子を見に行くようにアレグロさんに言われて……」
「すみませんすぐに行きます」
シェントは髪を細紐で適当にまとめ、慌てて食堂へと向かった。
♪ ♪ ♪
一行は幌に覆われた荷台で、オレンジの入った木箱と共に揺られていた。
昨日のような乗合馬車では、いつファルルにぼろが出るかわからない。そこでリベラへ向かう農家に、道中の護衛をするから相乗りさせてほしいと交渉したのだった。
晩夏とはいえ幌の中は蒸し暑い。昼間であればなおさらである。
「シェントが寝坊したから」
オレンジを食べていたアレグロが、恨めしそうにシェントを睥睨した。
ちなみに、彼女が手にしているオレンジには棒手裏剣の刺さった穴がある。用心棒を買って出るときに技量を披露してみせたのだ。シェントの頭にオレンジを乗せ、それに向けて棒手裏剣を投げることで。「私の腕を信じろ」と自信たっぷりに言われたシェントは、生きた心地がしなかった。
「ほんとスミマセン、朝は苦手なんだ」
気怠げに弁解したシェントは、木箱に背を預けて天を仰いでいた。青空でも見られれば気分も少しは晴れるのだが、視界に広がるのは薄汚れた生成り色。
「でも、夕方までには着くと思いますよ。ここからリベラまで、そう遠くないですから」
「それはそうだが――ファルルこそ、昨日は眠れたのか?」
「僕ですか? ええ、ありがとうございます」
と、穏やかに笑うファルル。
アレグロがファルルを気づかっているのも、どちらがベッドで寝るか一悶着あったからだろう。
当然、アレグロは雇い主であるアルトに譲ろうとしたのだが――
「床で寝るって言って聞かなかったもんなあ」
シェントは荷物から水筒を取り出し、水を一口飲んだ。
「女性を差し置いてベッドで寝るなんて、僕にはできません!」
「私は慣れているから」
「なっ、慣れてるだなんて……」
「だって俺たち旅人だし」
「シェントさんは黙っててください!」
昨晩も似たような言い争いが起き、根負けしたアレグロがベッドで寝ることになったのだ。
「もう一部屋取れればよかったのだが……」
アレグロの言葉にシェントは大きくうなずいた。彼女と別室だったならシェントも安眠できただろう。同じ部屋というだけで、彼女の寝息やシーツの擦れる音にすら意識が向いてしまったのだ。
そのうえ深夜に目を覚ました当の彼女に、眠れない理由を尋ねられてしまった。シェントは枕が合わないせいだと嘘をついたが、それを鵜呑みにしたアレグロが、あろうことか自分の枕を差し出してきたのだ。
もちろんシェントに使えるはずもなく。彼女がベッドに戻ったあと、シェントは渡された枕を遠くへ追いやって横になった。抱き止めたアレグロの感触を思い出さないように、きつく目を閉じて。
あれは事故だ。アレグロが躓いたから。抱きしめたのも不可抗力だ。
彼女の身体は想像よりもさらに小さく、受け止めたときの衝撃もほとんどなかった。そのまま掻き抱こうにも腕の中で消えてしまうのではないかと、有り得ない心配をしてしまうほどに。
「また思い出してんじゃねえか!」
「ど、どうしたんですか?」
いきなり頭を抱えたシェントの横で、ファルルが怯えたように身を小さくする。
「なんでもない」
再び水筒に口をつけたシェントは、
「ところで、お二人のご出身はどちらなんですか? どうして旅を?」
「げっほ!?」
ファルルの質問に盛大に咽せ返った。
「えっ、ええ!?」
本当にどうしたんですか、とファルルが慌てて背中を擦ってくる。
「ごほっ、あー、悪いな……はは……」
咳が落ち着いたところでシェントはアレグロを一瞥した。
彼女は苦笑すら浮かべていなかった。取り繕ったような無表情のまま、シェントと目を合わせようともしない。みっともなく咽せた自分に引いたわけではない――とシェントは思うことにした。というか思いたかった。
おそらくアレグロも窮しているのだろう。ファルルの素朴な疑問に、どう答えたらいいのかわからずに。
人を探すために武闘大会に出場したとアレグロの口から聞いているが、彼女の出自まではシェントも知らない。気にならないと言えば嘘になる。だが、当の本人に話すつもりがないのなら。
シェントは水筒を傍らに置くと、
「俺が育ったのは北のほうの小さな国さ。それと、『どうして旅を』だったか? 旅に出ろって言われたからだよ、俺は」
深く問われるのも面倒に思い、一気に吐き出す。
「俺、養子だったんだ。でも、その家にはすでに跡継ぎの兄弟がいてさ。当然、俺は二人と血が繋がってないし、髪も二人は黒かったし。だから俺も、わざわざ同じ色に染めてたんだぜ?
それで、まあ……俺なんていらないんじゃないか、ってずっと思ってたんだけど。まさか本当に追い出されるとはなあ」
シェントはまるで他人事のように語った。
グラツィオーソ王国はチェルティーノ大陸で指折りの大国であり、特に貿易都市のリベラには各地から商人や冒険者が集まる。この国で旅人の姿を見かけることは珍しくなく、自由気ままな旅に憧れを抱く者もいるだろう。
しかし、望まずに旅に出る者も大勢いるのが実情だ。アレグロが旅の理由を話さないのは、言えないからかも知れなかった。
国によっては極刑として国外追放を言い渡すところもある。身体的、精神的な準備もなく外の世界に放り出されてしまっては、ならず者に財産や命を奪われるか、魔獣に嬲り殺されるほかない。
幸い、罪人ではないシェントには時間があった。科術使いの師に稽古をつけてもらえたうえ、書物から知識を得るといった余裕もあった。
裏を返せば、旅に出される――育った場所を追い出される――ことは、前々から決まっていたことになるが。
「せっかくだから、あちこち見て回ろうかなって。そのうちどこかに永住できればいいんだけど」
「そうだったんですか……すみません、辛い話をさせてしまって……」
「俺はもう気にしてないから、いいんだよ。ファルルが気に病まなくても」
半分は本心で、半分は嘘だ。
旅そのものは想像よりも苦ではない。身を守るため周囲を警戒しなければならない一方で、周りからの評価を意識する必要がなくなったのは、精神的に楽だった。
ただ、旅に出るように宣告されたときの失意と無力感は、今でもシェントの心に影を落としている。彼らに見限られたくない一心で『いい人』を演じていたが、それも徒労だったのだ。「見聞を広めるため」とか「貴方のため」とか言われたように思うが、体のいい厄介払いに他ならない。
「……」
アレグロに視線をやれば、喉奥まで出かかった言葉を飲み込むべきか、葛藤しているように見えた。同情の台詞ではないだろうが、シェントは銀髪を掻き上げ、「よくある話だと思うよ」と金眼を細めて笑う。
「そう、か……そうなのだろうな」
アレグロは自分を納得させるように独りごち、目を伏せた。
それからリベラに着くまで、馬車の揺れる音だけが響いていた。
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