10
翌朝、〈ヴァンとソー〉の前で合流した三人は乗合馬車で王都を発った。
目的地のリベラまでは最短でも二日を要する。今晩の宿を求めて、道中でアダージョという宿場町に立ち寄った。
日もほとんど落ちていたため、一行はアダージョに入ってすぐの宿屋を訪れた。
「部屋二つ、まだ空いてる?」
「あと一部屋だ」
番頭の男がぶっきらぼうに答えた。
馬車に酔い、顔色を悪くしたシェントは「まいったな」と頭を掻く。
「だったら俺は他をあたってみるか。最悪、野宿だな……」
「だ、だめです!」
すがりつくように声を上げたのはファルルだ。
目を丸くするシェントの前で、ファルルは苦笑いを浮かべた。
「野宿は、シェントさんのお身体に障りますから……」
ファルルの厚意に甘えて、シェントは二人と同じ部屋に泊まることにした。外観と違わず古くて質素な部屋で、薄手のカーテンが隙間風に揺れている。
「暗いな。光石でも点けるか」
シェントは琥珀色の結晶――光石を取り出し、短い呪文を唱えた。光石は黄昏色に発光し、狭い室内を淡く照らした。
部屋にある家具は、二人用にしては小さなベッドが一台だけ。その反対側、扉近くの壁際にシェントは腰を下ろした。
「俺は床で寝るよ」
「あっ、それがいいですね」
胸の前で両手を合わせたファルルは、続けてとんでもないことを口にした。
「私も床で寝ます」
「なんで!?」
驚きのあまり立ち上がるシェント。
「え!? いけませんか?」
「いけないというか、君は依頼主なんだし……。アレグロ、そのベッド二人は厳しいか?」
「ふた、り?」
間の抜けた声で聞いてくるのは、アレグロではなくファルルだ。
「だから、ファルルとアレグロだよ。雇い主を床に寝させるわけには」
「僕とアレグロさんが!?」
言葉が続かないのか、ファルルは酸素を求める魚のように口をぱくぱくとさせる。
「同性同士なんだから、気にしなくても――」
不思議そうに首を傾げていたシェントが、ふと神妙な面持ちになる。
ファルルの頭へ徐に手を伸ばすと、
「え――」
呆ける彼女の髪を引き剥がした。
「「あ」」
代わりに現れたのは艶やかな黒髪。肩のあたりできれいに切り揃えられたそれは、少女のものにしては少し短い。
「…………」
時が止まったのではないか。
そう錯覚するほどの静寂の後、
「なるほどな……」
まず口を開いたのはシェントだった。
ファルルの鬘を左手に握ったまま、右手で眉間を押さえて呻くように言う。
「そういう趣味があったのか」
「ち、違います!」
間髪入れずにファルルが叫んだ。
「じゃあ、なんで女装――じゃないな、変装なんかしてたんだよ。ファルル? ま、これも偽名か」
三人の間を再び沈黙が流れる。
唇を噛んで俯いていた彼は、やがて観念したように名を呟いた。
「アルト・グラツィオーソ、です」
「グラツィオーソって……」
シェントは「どこかで聞いたような」と首を捻ってすぐに、この国の名称を思い出した。
グラツィオーソ王国でその姓を名乗れる者は限られている。
――まさかとは思うが。
「王族!?」
「――ここ、壁薄いから」
壁に寄りかかっていたアレグロが手の甲でそれを小突いた。
シェントは隣室に聞こえないよう、慌てて声を潜める。
「アルト、だったっけ。本当に王族なのか? なんでこんなことを」
「黙っていて――いえ、騙して申し訳ありません」
しゅんとうなだれ、小さくなるアルト。
大国グラツィオーソの王族にしては、正体を明かした今でも立ち居振る舞いに威厳が感じられない。嘘をつけない性分なのか、身分を偽っていたことも心苦しく思っているようだ。
アルトは視線を泳がせながら、か細い声で続ける。
「これは、その……王族として一人前になるための、いわば通過儀礼なのです」
「女装が?」
「だから違いますって! いい加減に女装から離れてくださいよ!?」
喚くアルトを横目に、シェントは乗合馬車での彼の様子を思い返していた。
ファルル、もといアルトは、乗車中ずっと外の景色を眺めていた。花や鳥を目にしては、図鑑で得た知識を披露するかのように逐一その名を呟く。珍しい草花や動物に対してならまだしも、普段何気なく目にする野生の動植物を、ファルルは感慨深そうに見つめていたのだ。
彼女は高貴な家柄の箱入り娘なのではないかと、シェントは踏んでいたのだが――
「まさか王族だったとは、ね」
「信じてくれるんですか?」
「いや? 騙しておきながら、今さら信じろなんてねえ」
言葉に反してシェントの声は明るい。
シェントにはアルトを責める気など毛頭なく、軽い冗談のつもりだった。この実直な王子様を少しからってみたかった、というのが本音だ。
アルトの顔が見る間に赤くなり、さらには目まで潤ませて鼻をすすり始めた。
「そうですよね……すみっ、ませ……」
「じょ、冗談だ!」
アルトに泣かれてしまい、罪悪感を覚えたシェントは慌てて前言を撤回した。
涙は女の武器と聞いたことがある。といっても、女装をやめた今、アルトの姿は少年のそれなのだが。
「冗談だから泣くなって、な?」
シェントはアルトの細い肩に手を置き、顔を覗き込む。女装といっても鬘をつけていただけで、化粧はしていないようだった。それでも伏した目を縁取る睫毛は長く、嗚咽を堪える唇も健康的な薄紅色をしている。
アルトは涙に濡れた黒い瞳でシェントを見上げてきた。
「うぅ……だったら、依頼も無効にはなりませんか?」
「お、おう。男に二言はなしってやつだ、最後まで付き合うさ。アレグロも、今になって断ったりしないだろ?」
問われて、アレグロは無言でうなずいた。ただ、その表情はどこか硬い。
シェントはアルトに向き直り、言いにくそうに告げる。
「そうだなあ、ここに来て急に口調を改めるのも、どうかと思うのですが……」
「そんな、言葉づかいなんて気にしないでください」
シェントは「それじゃあ」と軽く頭を下げ、話を続ける。
「悪いんだけど、改めて依頼の内容を確認していいか? さっき言ってた通過儀礼ってのは?」
「十六歳になる年に、国王から『試練』を授かるんです。それを成し遂げることによって、成人王族と認められるんです」
「へぇ」
驚いて声を漏らしたシェントだが、儀礼の内容が意外だったわけではない。
「俺と二歳しか違わないんだな。――背は今からでも伸びるさ」
「え?」
「なんでもない。ええと、リベラに行って杖を受け取るのが、アルトの試練なのか?」
シェントの質問にアルトが首肯する。
「それと、道中の護衛を探すことが最大の課題でした」
「依頼する相手が悪けりゃ、身ぐるみ剥がされたり誘拐されたりもあり得るか。でも、どうして俺たちに?」
「バッソと協力してカルカンドを倒したと聞いたので。あとは、歳も近そうだから安心かと思いまして」
「善人悪人に歳は関係ないがな」
ここまで会話に参加していなかったアレグロがぼそりと口を挟んだ。
「アレグロさんもシェントさんも、悪い人には見えませんが……? 少なくとも、お二人がカルカンドを倒してくれたおかげで、王都に被害は出ませんでしたから」
「本当にありがとうございます」と、アルトが深々と頭を下げる。
シェントとしてはアレグロを助けたい一心で行動したのだが、結果として大勢を救えたのなら悪い気はしない。
シェントは気恥ずかしさを覚えてアルトから目を逸らした。
「で、とりあえずリベラまで護衛すればいいんだな?」
「はい! 成人の儀に必要な杖を、リベラの鍛冶屋にお願いしているんです」
「だってさ、アレグロ?」
依頼内容を確認したシェントは、黙り込んでしまったアレグロに視線を移す。彼女は「わかった」とだけ返事した。
「……そういえば、結局どっちがそこで寝るんだ?」
シェントは一台しかないベッドを指し、少女と王子を見やった。
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