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「腹減った」
投げやりな声が、誰に聞かれることもなく森の奥へ吸い込まれていく。
声の主は十代後半の少年。端正な顔立ちで背も低くなく、着る物に頓着さえすれば格好がつきそうなものだが――彼は今、腹を鳴らしながら力なく歩いている。
疲労の程はその後ろ姿からもうかがえる。腰まで届く銀髪は、首の後ろで一つに結われているものの、まとまらずに乱れていた。
森に入ったときには眩く輝いていた木漏れ日も、いつしか光が鈍くなっていた。
この少年――シェントが旅を始めて早三か月。
旅の目的地はグラツィオーソ王国の東、王都ルーエだった。
つい半日前、ようやくルーエの門に辿り着いたシェントは、しかし入市税を払えるだけの所持金がなかった。先を急ぐあまり、旅の途中で路銀を稼いでこなかったのだ。
そこでシェントは手っ取り早く金を得るため、森に忍び込んで魔獣を狩ることにした。城壁の外で市を開いている商人に、魔獣の毛皮や牙を売りつけるほか、ルーエに入る手立てはない。
「本当に倒せるんだろーか……」
肩に担いだ斧槍はシェントの背丈よりやや長く、狭い場所では扱いづらい。なるべく開けたところをうろつくようにしているが、斧槍を振り回せる空間などたかが知れている。
生きるか死ぬかの瀬戸際の彼のもとに、微かに届いてくる水の音と空気の湿った匂い。さらに歩を進めると、青白くも暖かな光が足元にじゃれつき始める。
(蛍苔か。泉でもあるのかな)
日中に蓄光し暗くなると光るそれは、主に水辺に生える苔だ。
光の増すほうへ歩んでいったシェントは、荷馬車が二台は停められそうな広い空間に出た。
そこには小さな泉と、水を掬ぶ一人の少女の姿があった。
少女の横顔を隠す緋色の髪が、シェントの視線の先で燃え盛る。
しばし目を奪われていた彼は、はっと我に返ると茂みの裏にしゃがみこんだ。
(なんで隠れてんだ俺!? ここは何か話しかけてみるべきだろ……)
意を決して腰を上げる。
ほぼ同時に、少女の背後の草木が荒く揺れ動いた。
人か、あるいは――
(魔獣!?)
シェントは荷物を放り捨て飛び出した。
「危ない!!」
しかし助けに入るより早く、少女と魔獣の間に銀光が閃く。
ぎゅっ!? と短く悲鳴を上げる魔獣に背を向け、少女はシェントのほうへ迫ってきた。
「え?」
時が止まったかのように動けなくなっていたシェントは、首に氷雨に似た冷たさを感じて視線を落とした。
赤く濡れた刀身が喉に触れていた。
(刺され――っ!?)
一瞬にして冷や汗が吹き出す。
しかし状況を理解してもなお、痛みは一向に襲ってこなかった。血が喉を込み上げてくる感触もない。
刀身を染めているのは自分の血ではなく、今しがた斬り捨てられた魔獣のそれだと思い直して、シェントは長く息を吐いた。安堵と感嘆の混ざったため息を。
疾走の勢いを瞬時に殺し、皮膚を突き破らないように切っ先を向ける。一朝一夕では成し得ない芸当を、まだ若い――同年代に見える――少女は平然とやってのけた。
少女はシェントを見上げながら、小さくも凛とした声で問いかけてきた。
「おまえ……追い剥ぎか?」
「お、追い剥ぎ!? 俺はただの通りすがりの旅人で、君を――」
必死に弁明するシェントの視界に魔獣の死体がちらつく。「助けようとしたのに」と続けるつもりだったが、ぐっと飲み込んだ。
少女を襲ったのはカルカンドという魔獣だった。姿形は猟犬に似ているが、それにない大きさの爪と牙を持つ。人間なぞ飛びかかられたらひとたまりもないのだが――少女はそのカルカンドを返り討ちにしたのだ。首を一文字に斬りつけることで。
「ただの旅人、か。そのわりには、こちらをうかがっていたようだが?」
さすがに「君に見とれていました」と口説き文句まがいの台詞は言えず、シェントは押し黙った。
両者の間に沈黙が流れる。
先に音を上げたのは意外にも少女のほうだった。刺すようにシェントを見つめていた彼女は、「まあ、いい」と突きつけていた刀を鞘に納めた。
解放されたシェントの口からため息が漏れる。
街中で野垂れ死ぬか、森で魔獣に引き裂かれるか。どちらも勘弁してほしかったが、まさか少女に殺されそうになるとは。それも助けようとした相手に。
「あー……君、強いんだな」
気まずさからシェントは適当に言葉を紡ぐ。
「しっかし、なんだってこんなところに、女の子が一人で――」
「一人なのは、おまえも同じだろう?」
心なしか、少女は「一人」の語気を強めて言った。シェントを睨みつける紅の瞳も、小さな灯火のように揺れている。
しかしそれも一瞬のこと。少女は踵を返し、シェントの来た道を走って去っていく。
「ちょっと待っ――」
制止しようと一歩踏み出したシェントだが、
「追いかけたとこでどうすんだよ……」
少女の後ろ姿が薄闇に溶けるまで、一人呆然と立ち尽くしていた。
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