何のために
荒れ果てた山の中を、襟足の伸びた黒髪の男が歩いていた。
漆黒の衣装を身に付けているため、陽のほとんど射さないこの山中で、彼の姿は周囲の闇と同化しかけていた。
右手に持った鉈で草木を掻き分けながら進んでいた男は、ふいにその足を止め、体勢を低くした。
草葉の陰から現れたのは、まだ十歳にもならない少年だった。男は腕を伸ばして彼の胸倉を掴み、後方へと放り投げる。さらに大きく踏み出し、少年に続いて飛び出してきたカルカンドの前脚を、鉈で斬りつけた。
カルカンドが悲鳴を上げ、地に伏せた。その頭蓋に鉈が突き刺さる。カルカンドはぴくりとも動かなくなった。
男は鉈を引き抜いて少年に向き直った。無事を確認するでもなく、叱るでもなく、静かな口調で問いかける。
「なんだ、お前は。なぜこのような場所にいる」
少年は地面に座り込んだまま、震える手で腰の鞘を押さえる。
「つ……強く、なりたくて。これ持って、山に」
「そうか」
男は一つ頷くと少年に背を向けた。
「ちょっと待ってくれよ! なあ、おれに」
「断る」
「ま、まだ何も言ってないだろ!?」
足を縺れさせながら男の正面に回り込んだ少年は、未だ震えの止まらない手で男の腰にしがみついた。
「おれ、つ、強くなりたいんだ。だから、おれを……おれを弟子にしてください!」
「断ると言った」
「お願いだ! お願いします!!」
その小さな身体を見下ろしていた男は、ふと思い出したかのように尋ねる。
「何のために」
「えっ?」
「何のために強くなりたいんだ、お前は」
「……妹を、守りたいんだ」
男から数歩離れ、少年は瞳を揺らがせながらじっと彼を見上げた。回答次第では弟子にしてくれるのか、とでも言いたげな目だった。
男は少年に一瞥をくれただけで、その横をふらりと通り抜けた。
「じゃあ、あんたは……!? あんたは何のために、そんなに強くなったんだよ!」
「殺されないために」
男は迷うことなく即答した。
それきり少年は何も言ってこなかった。
♪ ♪ ♪
翌日。
山頂近くの小屋で一仕事終え、男は煙草の煙を燻らせていた。ただし、肝心の香りは血の臭いと混ざってほとんどわからない。
三本目に火を点けた男は、部屋に転がる死体にあらためて目をやった。
一つ目は腸が引きずり出されていた。
二つ目の首はあらぬ方向に傾いていた。
三つ目には目玉がなく、胸に穴が開いていた。
四つ目が大切そうに抱えていたのは、赤く染まった自身の腹だった。
「……あと一つか」
最後の一本となった煙草を咥え、器用にも左手だけでマッチを擦る。その火を煙草に付けた直後、
「おかあ……さ?」
五つ目――剣を腰に下げた少年が、小屋に戻ってきた。その声は掠れていたが、誰も物言わなくなった部屋によく響いた。
「おまえが……おまえがああああ!? ああああああああ!!」
喉から血が吹き出そうなほどの叫びを上げながら、少年は愚直に男へ突っ込んでいく。
男は捨てた煙草を足で踏みにじると身を捻り、過ぎていった少年の背を高く蹴り飛ばした。
「がっ!!」
頭から落ち、額を強打して悶絶する少年。男はその背を片膝で押さえつけ、手甲鉤をはめた右手を振り上げる。
その爪が少年の胸を貫く寸前、
「死にたっ、な……」
少年は嗚咽と共にそう洩らした。
山賊のアジトと言ってしまうにはあまりにも粗末な小屋の中で、男は呆然と立ち竦んでいた。
『死にたくない』
頭のなかを廻る、少年の最期の言葉。それは昨日の問答まで思い起こさせた。
――何のために強くなったのか。
「死なない、ために」
動かなくなった少年の背に、男は再び答えを返す。
男は気付かされてしまったのだ。死に対する恐怖も、生に対する執着も、自分にはないということに。
だとすれば、何のために。
何のために強くあろうとしていたのか。
生きるために強くなるはずが、強くあるために生きていたのか。
「らしくないな」
男は自身に言い聞かせるようにこぼした。
“自分らしさ”など、男にはわからない。だからこそ、思考することを無理にでも止めたい時、その言葉が役に立った。
男はすでに血の固まりかけている少年の身体を抱き上げた。見た目より重くなったそれを女の遺体の傍に置くと、少年の掌を女の腹に乗せた。
その行為が何の意味にもならないことを、男は知っている。
2015年
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